進化倫理学と利他と規範と法と倫理とあといろいろめんどくせえ

倫理学といえば、普通は「なんじなんかせよ」という規範に関する倫理学です。
今はおおむね大陸系義務論(カント)、英米功利主義ベンサム、J・S・ミル)、徳倫理学プラトンアリストテレス)があります。
カントの義務論は「意志を論理的思考で他者一般に敷衍すると、「汝の意志の格律がつねに普遍的立法の原理として妥当しえるように行為せよ」というのが義務の法則となる」というものです。分かりやすく言うと、「意志のなすべきルールのリストを一般化できるか、できないならそれは倫理じゃないし、できるならそれが倫理である」というものです。
ベンサム功利主義は「感情を量的に測ると、「最大多数の最大幸福」(個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきである)」というものです。ベンサムは大真面目に「じゃあどうすれば感情を計算できるか」を追求しました。(なお、功利主義とはちょっと違いますが、ロールズの公正論は、功利主義に公正さが入っていないから、公正さという概念で重みづけをし直すというものでした)
倫理学はマイナーだからちょっと置いておいて。義務論はより倫「理」の理たるゆえん、論理的思考に重きをおいて、その原因に意志をもってきたものです。功利主義はむしろ感情の方に重きを置く、という感じですね。


実は、私の今の関心は彼らにはありません(ええー)。むしろ生物学的・文化的なところに興味があります。


Wikipediaを引くのは気が引けますが、「道徳」の項で、文化的に何かありそうだということは見えてきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3
「それでも、様々な社会の間に共通した特性を発見することができる。例えば、互恵関係、忠誠、権威の尊重、身体的な危害の制限、性的関係や食べ物の規制などである。この類似性が何に起因するのかは、議論の的であった。」
どうやら人類には幅広くそういう規範的な文化があるようだ、ということに興味を持ちました。
互恵関係は財・サービスの、忠誠・権威の尊重は地位の、身体的な危害の制限は安全の、性的関係はナワバリ(私的領域)の、食べ物は健康の事柄です。バラバラに見えますね。でも、とりあえずはこの五つに何か秘密が隠されていそうだ、というのは窺い知れます。


また、生物学的にはこんなのもあります。「利他的行動」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E4%BB%96%E7%9A%84%E8%A1%8C%E5%8B%95
利他的行動とは「ヒトを含む動物が他の個体などに対しておこなう、自己の損失を顧みずに他者の利益を図るような行動のこと」です。
我々は利他的行動は「善の徳」だと思います。ですが、単純に善だけで世の中回るかというと、世の中搾取的な人は多いので、野放しにしておくと速攻で破たんします。
実は、そのためにこそ規範があるはずです。何かというと、「利他的行動」とは「財・サービス」を他者に供給している、もっとも原始的な「経済」に他なりません。そして、それを成り立たせるには、「地位」や「ナワバリ」や「安全」や「健康」が守られていることが必要なのは何となくわかると思います。普通に考えると、群れ(地域共同体)が他者危害的であっては経済が成り立つ訳がない。これでは財・サービスは広がりません。


あと、進化倫理学についていくつか。
進化倫理学は「規範のコアたる利他的行動を取るためには条件が要る」ことをくどいほど説明している。簡単に言うと
・自分のためのリソースを他人に割くと滅ぶ
・血縁には利他的であればよいが、非血縁に利他的であると滅ぶ
・あなたが利他的であっても相手が搾取的であればやはり滅ぶ
ということなんです。
これは超えられない壁なので、みんながリバタリアン(他者の権利を侵害しない限り、各個人の自由を最大限尊重すべきだと考える、古典的自由主義。政府と親和性が低く市場と親和性が高い)だった場合、規範は成り立たなくなる。リバタリアンは規範のコアであるかも知れないが、リバタリアンであるだけでは生活が成り立たなくて困るので規範が生じた、と考えるべきではないか。


じゃあどうしてこうなったか?


・利他的遺伝子は定期的に発してはやっぱり滅んでいった「ダメな」遺伝子であった
・ただ、血縁に利他的であると生き残りやすいので、その性質はガッチリ残った
・ある種の「自分の子と他人の子のどちらもかわいい」個体が他人の子をかわいがるようになった(でも証拠はない)
・これは群れの中でそのうち有利であることが明確になり(特に他の群れと争っている場合は、死んだ個体の子を生きている個体が育てたらそりゃ有利に決まってる)、残るようになった(でも証拠はない)
・搾取者には制裁や賠償・補償が科せられる(でも証拠はない)
・制裁や賠償・補償も無制限ではありえないので、その場しのぎのルールのリストができた。これが規範である(でも証拠はない)
・そういう集団はすごく結束が強くなり、利己的な集団よりも生き残りやすくなった(でも証拠はない)


という話が複数の記事に載っていたように記憶している。
「利他的な人」は嫌われる:実験結果
http://wired.jp/wv/2010/08/31/%E3%80%8C%E5%88%A9%E4%BB%96%E7%9A%84%E3%81%AA%E4%BA%BA%E3%80%8D%E3%81%AF%E5%AB%8C%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%EF%BC%9A%E5%AE%9F%E9%A8%93%E7%B5%90%E6%9E%9C/
「利他的行動は戦闘で進化」:コンピューターモデルで分析
http://wired.jp/wv/2009/06/08/%E3%80%8C%E5%88%A9%E4%BB%96%E7%9A%84%E8%A1%8C%E5%8B%95%E3%81%AF%E6%88%A6%E9%97%98%E3%81%A7%E9%80%B2%E5%8C%96%E3%80%8D%EF%BC%9A%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%A2/
利己主義と裏切りが支配する世界に「協力」が生まれる条件は:シミュレーション実験
http://wired.jp/wv/2009/03/04/%E5%88%A9%E5%B7%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%A8%E8%A3%8F%E5%88%87%E3%82%8A%E3%81%8C%E6%94%AF%E9%85%8D%E3%81%99%E3%82%8B%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AB%E3%80%8C%E5%8D%94%E5%8A%9B%E3%80%8D%E3%81%8C%E7%94%9F/


自由から規範までは遠いが、まあ、そういう風にして成り立って行ったのだろう。


あと、普通は、権力のあるアルファが、今どの規範を重んじるか、誰にどれだけの財・サービスを分配するか、誰の地位を重んじるかということをしていて、これが政治ってやつです。
なので、規範1.0は家政であり、規範2.0は助け合いであり、規範3.0は再分配であったのだろう、と予測する。


規範4.0である倫理(自分の喜ぶことを他人にせよ、自分の嫌なことを他人にするな、という黄金律。ある種規範のコアへの先祖返り)は、自他の区別と類似性を弁えていて、論理的思考が出来て、集団や組織を超えた公共性(集団間関係等)が理解できて、そこで初めて生じたものではないか。
というか、そこまでしないと、集団や組織を超えた、万人に通用する外交官の儀礼や市場原理のような倫理ってのはできないのではないか。そうでなきゃ多分成り立たないほど高度な徳ではないか。
それまでも何度でも発生のチャンスはあったはずなのだが、やはり条件が揃わなかった以上、「ダメな」まま滅んで行ったのではないか。
下手すると、そういう規範4.0は、人類が生じて当分は存在せず、イエス・キリストやゴータマ・ブッダが言い出してから「ええっ」と皆をビックリさせて、そして自他の区別と類似性と論理的思考と公共性を持つ全ての人に広がっていったのではないか、とさえ思う。
あとはやっぱり、政治の道具としての法(規範3.5)の存在は欠かせないだろう。複数の集団をまとめて外敵と外交せざるを得ないときに、皆に言うこと聞かせるのって大変だもの。法があって、「ああ論理的で公共的だね」という下地があってこそ、似たような概念である倫理も成り立ったのではないか。
同様に、宗教や、そこから抽出された思想の存在も無視できない。やはり無限の神というのは、「王は神の代理だから絶対に近い」から「万物は神の下では平等」まで、倫理を作るときには有意義な存在だったはず。カントの「やっぱ倫理は神の存在を要請するよ」というのもそこに意義があるのだろう。


てんで、たぶん規範にはこういういきさつがあったのだと思う。
自由
→例外的ですぐ滅ぶ利他
→血族における家政
→群れにおける互酬(助け合い)
→政治による再分配
→複数の集団に言うこと聞かせる論理的で公共的な法&無限の宗教や神に支えられた思想
→万人に通用する黄金律・外交儀礼・市場原理としての倫理
たぶん細かく詰めていくと違う点もあるだろうが、とりあえず一人ブレインストーミングとしてはこんなシナリオを想像した。
今でこそ利他は大事な大事なヒトの柱だ。だが昔はそれだけでは危なかったのだ。だからこそ家政があり、互酬があり、再分配があり、法があり、倫理があった。そこまでしてヒトやその祖先の動物は利他の重さを重んじたのだ(というか、昔からそうだったから今もそうだ、としか言えないんだろうけど)。