親や教師となる我々は、いかにしてわいせつと立ち向かうべきか。

今思うと、表現規制の議論は根本的に間違っているのではないか。憲法は国家と市民の関係だが、人権は国家抜きでも市民の間で大事に守られうる(民法がそうであるように)。そして、国家が人権を規制する以上に、「市民が人権を規制する」のだ(少なくとも内心の自由への規制は民間の方が厳しい)。

つまり、人身の自由や内心の自由と同様、表現の自由は国家と市民の関係だけではなく、それ以上に市民間のものでもある(そりゃそうだ)。だから国家の表現規制が市民の表現の自由を規制する以上に、市民の表現規制は市民の表現の自由を規制するということでもある。

つまり、政府・地方自治体の行政指導だけではなく(影響が全くないとは思わないし、むしろ影響は大きいと思うが)、民間での自主規制を根本的に無視している限り、ある種の市民「が」ある種の表現を規制し続けるだろうし、だから政府等をいくら批判しても問題は解決しないのではないか。

そしてもう一つ、ある種の表現の自由を市民が自主規制することが実は「正しい」のではないか、という問いかけに答えなければならない。あるいは、ある種の市民がなぜある種の表現を規制しようとするか、その思考や感情には「添わねば」ならない、ということでもある。

さて、そういう「規制される表現」であるわいせつのことを試しに考えてみよう。以前も書いたんですが、わいせつの嫌われる理由は端的に「それを公の場で閲覧することを嫌う人がいるから」です。あと「自己コントロール能力や社会性のない人で、性的な行為が誘発される人がいるから」です。

宿題(2012/10/24):ロリエロマンガ規制派は一体何を考えているのか改 - Togetter

そうすると対処法は基本的には「わいせつ物を公の場で閲覧しない」「自己コントロール能力や社会性のない人において、性的な行為が安易に誘発することを防ぐ」この二つになります。これをしない限り、市民はわいせつを嫌い続けるし、規制もやめない。逆にこれらをしていれば規制する動機がなくなる。

私がむかーし何度か書いたんですが、「わいせつ物を公の場で閲覧しない」に関しては、規制される表現をその中だけで流通するようにする、そういう「制限された場」=『廓』を作れって話になるんですが、それは以下をお読みください。

狂人演説(2012/10/19):ゾーニングと、廓と、ときどき、社会法益の無責任性について - Togetter
狂人演説(2012/12/17):表現の自由はどう規制されるべきか - Togetter

  • 自制心や社会性のなさは精神医療で解決すべきという発想ではないのか。

「わいせつ物を公の場で閲覧しない」が徹底されるためには、「わいせつ物を公の場で閲覧している奴をシメる」仕組みが普通は必要です。基本的には他人が諌めるべきなんですが、それで効く人と効かない人がいます。後者に関しては、「自制心や社会性のない人」は何言ったって聞かない。

こういう人はどうするかというと、とっとと自制心や社会性を身に着けさせることが基本になります。これは性教育ですらなく普通の教育の話ですし、親は子供が中高生になったらこの手の教育をいくら何でもしているはずです。していない? それはマズイ。

それがダメで、明らかに非社会的か反社会的な子供だった場合どうするか。実は精神系医局に連れて行くんですね。なに? 「子供を精神系医局に連れて行くと将来差別される」? それは確かにある。俺もとある精神科でうつ病の診断受ける時に、精神科医の父に「就職差別される」って猛反発されたから。

でもね、端的に申し上げて、病気を治さない、抑えないで、就職できると思う? そこがダメなら就職なんて出来っこないし、出来ても問題を起こしてトラブルで辞めることになりかねない。というかなる。だから自制心や社会性の欠如に関しては、サクサク抑えて、あわよくばサクサク治すのがベターです。

狂人演説(2012/12/16):表現の自由と言ったことに伴う責任と心の病 - Togetter

  • 今の性教育ってどうなってるんだろう。よう分からん。俺の時代の性教育は実に無意味であり無駄だった。

また、「自制心や社会性のない人において、性的な行為が安易に誘発することを防ぐ」ですが、これは性教育の仕事です。

私は学問の自由と教育を受ける権利を大変重視していて、ある種100%保障たる内心の自由と、表現の自由の間に位置する、表現の自由より重い権利だと思っています。だから、表現の自由に学問の自由が優越すること自体は全く構わないと思っている。だから、性教育が性愛の表現一般より重い。

しかし、そんなにも重い今の性教育が「効く」人と「効かない」人がいる。

というか、普通は常識的な性教育というものは、本当に届けるべき「自制心や社会性のない人」には効かない。そりゃそうだ。常識的な性教育では、彼らの性欲にひたすら我慢を強いるだけだからだ。違うというなら最近の性教育の内容を説明してください。まだ「昇華」がどうとかに頼ってるんじゃないのか。

いわゆる性欲の「昇華」の実践には技術が要るし(性欲と関係があって性欲より高度な領域が明示されているかどうかなど。俺はまだ見えてない)、それは自力だけで何とかなるとは限らない。普通はどうにもならない。

子供の性欲を昇華させることが出来るっていうんならやり方を教えてくれよ。そこまで含めてこその性教育だろうと俺は思う。ちなみに俺は知らねえぞ。だから親になんかなれない。

子供が思春期になって、性愛について何も教えられなくて、それで子供の性格が歪むことを考えると絶望的な気分だ。みんなそれを教えられるのか。教えられないなら、よくみんなそんな安易に親になんかなれるな。(否応なしに親になっちゃった人はともかく)

本当にみんなどうやって親や教師として子供を教えられるんだろう。誰も助けちゃくれないのに自然とそんなスキル獲得できる訳がないので、祖父母や友達やPTAが教えてくれるのだろうか。あるいは政府が? そんな話聞いたことないけど、俺が知らないだけでそういうサービスがあるのか?

まさか全生徒にスポーツを強要すればいいとか考えちゃいまいな。それではスポーツの苦手な子供の憎悪か絶望か両方を生むだけだ。俺の時代は剣道か柔道かダンスは強制だった。なぜこれらが強制で選択制なのか説明してくれ。俺は全く納得がいかなかったし、それで性欲が昇華されたという事実はなかった。

もし今の性教育が、技術的な背景を欠いたまま「昇華」に頼っているのだとしたら、それはパーフェクト無意味であり無駄です。そのような性教育は、性愛の表現一般より重いがゆえに、それらよりはるかに有害です。だってそれは実践科学じゃないし、だから間違っていることが予め約束されているからだ。

  • メディア効果論が言うには、要は素質があって初めてメディアの悪影響とやらがあるということだ。

メディア効果論においては、「メディアに誰かの意見を変えさせる力は弱い」「もともと素質を持った子供だけがメディアに反応し、素質を持たない子供はメディアの影響を受けない」「メディアの評価は親しい人の意見に左右される」などが既知の情報です。

先ほどの話と合わせて考えると、「自制心や社会性が精神の素質上の理由で存在しない」子供は、そういうものなので、自制心や社会性の問題は精神医療的に解決するしかない訳です。シンプルに言うと。

  • つまり……どういうことだってばよ?

(1)表現の規制は実質的には市民の要請で、まずは何よりも市民を説得する必要があるので、だから国家に文句言ってもパーフェクト無駄。

(2)表現の規制と表現の自由のすり合わせのために、公向けではない表現はひとところにまとめて、その中に制限しておいて、後はその中では自由であるべきだ、と以前から考えている(これを実践すると問題はいっぱいあるけど、筋としてはそういうことになる)。

(3)自制心や社会性のない子供はルールを破るので、そこはしっかり教育をしなければならない。それも実践的に意味のある教育でなければ意味がない。学問は表現一般より重いが、だからこそ学問が悪影響を及ぼすようなことがあるとなると、それは端的に危険なのだ。

(4)教育しても自制心や社会性が身につかない場合は、社会的に見ると病的な素質を持っている可能性が疑われる。だから病院行ってサクサク抑えてサクサク治す。