BOX

当時、研究所では1kg相当の質量の量子テレポーテーションが試みられていた。


事態が急変したのは、試運転中に、端末内に未確認の金属塊が発見されてからだった。
調査の結果、それは鉛の箱であり、中空構造の中にUSBメモリと思われる物体が数本入っていた。
解読を進めていくうちに、それが今のものと設計の微妙に異なる、
量子テレポーテーション装置の設計図であることが判明した。


中にはメッセージが入っていた。
「親愛なる過去の空間転送技術の先輩へ。これは時空転送技術のテストである。
設計書に記された時空転送装置の開発と、未来へのメッセージの送信を願う。
未来の時空転送技術の一開発陣より」
メッセージの日付を確認した者たちは戦慄した。今から30年後ではないか!


激論が戦わされ、最終的に研究所は設計書に記された時空転送装置の開発に踏み切った。
後援している企業・団体・政府から一様に拒絶反応があったが、研究所は強行した。
これは未来からの挑戦状だ。これを無視しては、人類は偉大なる一歩をみすみす己の手で封じることとなる。


こうして急遽、時空転送技術への挑戦が始まったのだった。


まず突き当たったのが、数学的障壁だった。
装置の設計は、現時点では証明されていないいくつかの数式に基づいていた。
開発はまず、それら数式の証明から始められなければならなかった。
ただちに世界中で数式証明プロジェクトが発足し、そして1年が過ぎた。


再び、研究所の装置の中で、鉛の箱が発見された。
内包されていたUSBメモリには、問題となっていた数式の証明が記されていた。
数学界は現時点での証明との検証を急いだ。合っているものもあれば、違っているものもあった。
違いを埋めるべく、数学界はさらなる研究に没頭した。


誰も予想していなかったことだが、2ヶ月後、数式の一つの誤りが証明された。


数式が示していたのは、ある特殊な時空の存在である。
時空転送装置を使って、データを特殊な時空に送り込む。
この時、特殊な時空はデータの状態をそのまま保存し、そのままの状態で任意の時空転送装置に送り返せる。
理論上は異なる時間への転送すら可能である。
ただし、今の数式では、現在以前への転送は保証されるが、未来への転送は保証されない。ということだった。


数学界の一大快挙と呼ばれたが、同時に時空転送装置の開発は頓挫するかと思われた。
だが、数式の誤りを発見した学者はこともなげに言った。
「では、過去の我々が未来の後輩に教育してやろう。より優れた数式は、より優れた技術を生み出すと」
それは、数式の改良を、そしてそれを反映した時空転送技術の改良を目指すことを意味していた。


研究所は現時点での開発の継続を望んだ。何にせよ装置は動いているではないか。
件の数学者はおさまらなかった。優れた技術を追及することが、最終的により優れた結果をもたらすはずだ。
物理学界と数学界の間に微妙な温度差が生じていた。研究所は現状での開発を、数学者は数式の改良を急いだ。


そして3年後、研究所は時空転送装置の完成を目前にして、再び障壁に突き当っていた。
質量は既に10kgのものを転送できるまでになっている。距離もブラジルから日本まで、1ミリ秒以内。
だが、設計書に記されていた通りにやっているのに、未来へのメッセージが送れない。
送ったと同時に元の装置に戻ってきてしまう。これは一体どういうことか。


数学界はまたいくつか新しい数式の誤りを見つけており、その修正に全力を尽くしていた。
皆、研究所の失敗を冷たく横目で見ながら、一つの信念を共有するに至っていた。
未来の時空転送技術は不完全なのだ。だから、現在から現在へ、未来から過去へしか送れないのだ。
過去の我々が未来の後輩にメッセージを送れるほどに発展したとき、時空転送技術は完成する。


研究所もただ挫折していた訳ではない。未来からの贈り物はどんどん増えていった。
また合っているかどうだか分からない新しい数式、新しい時空転送装置の設計図、その他様々な科学的な成果。
研究所は未来からの贈り物の船着場として、間違いなく現在の世界に多くの便益をもたらしていた。


未来が過去へ多くの贈り物をしても、過去はそれに追い付き追い越す勢いで貪欲に迫っていた。
未来から送られてきた未来の数式が全て証明され、または新しい証明に置き換えられる日が来た。
それは奇しくも、未来からメッセージが届いてから、ちょうど10年目のことだった。
最後の論文を発表した数学者は、最初の誤りを発見した例の数学者だった。
彼は最初の誤りを正すためだけに研究生活の大半を捧げ、そして打ち勝ったということになる。


そして、10周年記念として、研究所は未来へのメッセージの送信を再び試みるようになった。
最新の数式に従って作られた最新のコンピュータ、最新のプログラミング言語で、
プロジェクトは着々と進められた。
送信の日を迎え、研究所はこれで何度目かになるメッセージを込めて、
既に古いメディアとなりつつあるUSBメモリを、鉛の箱に詰めて、装置に入れた。


「親愛なる未来の時空転送技術の後輩へ。これは時空転送技術のテストである。
時空転送装置の開発が成功したかどうか、過去へのメッセージの送信を願う。
過去の時空転送技術の一開発陣より」


研究員が転送プログラムを実行した。
鉛の箱は、一瞬消失したように見えたが、再び装置の中に現われた。
辺りに落胆の声が上がった。また失敗したのか。


だが、箱の中のUSBメモリを確認するうちに、その声が驚愕の声に変わった。
中にはこう書かれていた。
「親愛なる過去の時空転送技術の先輩へ。これは時空転送技術のテストである。
時空転送装置の開発は完全に成功した。未来へのさらなるメッセージの送信を願う。
貴君らの努力に大いに敬意を表し、感謝するものである。未来の時空転送技術の一開発陣より」


その日、研究所は湧いた。
時空転送技術完成のニュースは世界中を駆け巡り、直ちに祝福のメッセージが寄せられた。
特に数学界からは熱烈な歓喜と親愛の情が伝えられた。今までの成果が遂に現実のものとなったのだ。


各時代から贈られてきた鉛の箱は、ガラスケースに入れられ、研究所の入口に並べられた。
時空転送装置の商標は『Box』と呼ばれている。
未来と過去から、鉛の箱に入れられて、贈り贈られたものだからだ。


最初に未来から送られてきた箱には、写真が貼られている。
研究所の所長と、数式の最初の誤りを発見した数学者が、固く握手している姿である。