『意味と生命』要約
『意味と生命―暗黙知理論から生命の量子論へ』isbn:4791750381
要約
- 物理学と生命
- 生命と暗黙知
- 身体と精神
- 暗黙知が身体イメージを作り、身体の上に感覚イメージなど精神がある
- 精神は身体の上位原理であり、身体に基づくが、身体そのものではない
- 身体・精神・技能
- 技能も暗黙知の働きだが、意味付けしたり表現したり意味を読み取ったりするというプロセスはない
- 身体・他者・言語
この本の軸は二つです。
- 暗黙知:生命の持つ個体としての情報処理能力
- 層の理論:物事は下から上に積み重なり、下は上を構成し、上は下に独自の原理をもたらす
この二つを軸に、物理学の領域から言語にわたって論じている本です。
心ということを考えると、生命の情報処理ということに行きつきます。
これを推し進めると、極論すれば心に脳は必ずしも必要ないとなります。生命が情報処理していれば何だっていい。
あえて生命と心を分けるなら、生命は増殖能力などに関わるところを、心はそれ以外を担当しているとでも言えばいい。
それで、粘菌が迷路を解き明かす記事を見て、「粘菌にも心があると言っていいんじゃね?」と考えてしまいます。
そのような初歩的な生命にも存在するような初歩的な心のことを、この本では暗黙知と読んでいるようです。
層の理論については、Moto_Mさんの数学⇒物理⇒化学⇒生物という構図という記事を読んでください。
これをもっと拡大できないかと当然思うところです。
この本を追いかけると、どうやらこういう構図があるようです。
- 物理学(物質・時間・空間)・化学→生命→暗黙知→身体イメージ→精神→技能
- 技能+他者→言語
ここで言う言語は、意味を伝達し再解釈可能であるなら何でもよく、ぐっと原始的には粘菌の細胞同士でホルモンのやりとりをするとかでもいいわけですね。
ともかく、こういう階層構造があるのだ、ということですね。
なお、私と栗本慎一郎やマイケル・ポランニーとで考えが違うのが、「生命を説明する論理を物理学の中に入れるか入れないか」です。
栗本慎一郎やマイケル・ポランニーは入れようとしているけど、私は入れなくてもいいと思っています。
たまたま生命という層が、様々な上への可能性を持つ中間層だったというだけで、その層を物理学の層に入れておくのはおかしい。
生命という層が物理・化学層を型どりしているというのが、層の理論として正道なのでは?
じゃあその層はどこから来たのかということになって、それは未解決の問題として残るけど。
個人的には、生命が生じる可能性があるとかいうのは論理学の世界の話で、それが物理学の層より根底にあると思うけど。