カント『判断力批判』(上)要約

判断力批判』上isbn:4003362578
判断力批判』は上と下とで別の事柄を扱っているので、分けます。
上では美について、下では目的論について論じています。


快適は単に経験から快を得ることで、分かりやすいですね。これは判断力は関係ありません。
美と崇高と目的論については判断力が二つの能力やもの(何かはそれぞれによって違う)を関連させることによって生じます。


カントの美の定義ですが、「経験のパターン(構想力)から背後に隠された法則(悟性)を見出して快を感じる」のが美だそうです。
どういうことかというと、虹を見たとき、人は光を快適に感じるわけではなくて、光のパターンから背後に隠された法則を見出して快を感じる、ということです。
ここから美しいものは何らかの合理性をもつものとされます(その合理性は人間の美的判断力にとって合理的であるということですが)。
逆に、最初から法則・概念の明らかなものを美しいと思うかというと、パターンから法則を見出すプロセスがないので美しいとは思わないことになります。
これだと快適と美を区別できそうです。快適は感覚にあり、美は発見にあるということですね。


崇高というやつも出てきます。巨大なもの、勇壮なものに対したとき対象に対して抱く感情また心的イメージのことです。
カントの前にイギリス人美学者・政治家・保守主義者でバークという人がいて、「ちっちゃいもの萌えが美、デカイもの怖いが崇高」(こういう表現ではない)と言ったそうです。
これだけ聞くと「ああ、高い山や荒れ狂う海が崇高なのね」となりますが、カントは違います。
カントの崇高は二段構えで、高い山や荒れ狂う海などの「無限大への志向を持つパターン(構想力)」を介して「絶対的全体性のイデア(理論理性)」へと到達します。
即ち、「無限大への志向を持つパターンは、何の法則・概念ももたらさないが、絶対的全体性のイデアを刺激する」というものです。
プラトンイデアについて説明すると、不完全な現実に対して何か完全な理念があるというあれです。
カントでもそこは同じで、イデアはパターンを越えたものとして存在します。
構想力は無限大への志向を持つパターンをそれこそ無限大に拡大させようとしますが、それでも絶対的全体性というイデアには到達できません。
そしてイデアはすごいなあ、となります。この時に感じる快の感情が崇高、ということだそうです。
個人的にはこの辺なーんかバーチャルオナニー臭くていやだなあと思います。もはや経験は二段構えで間接的にしか関係ないじゃないか。


まあ、快適は経験に快を見出し、美は経験のパターンの法則性の発見に快を見出し、崇高は経験もパターンも越えて絶対的全体性のイデアに快を見出す、という感じのようですね。