カント『道徳形而上学原論』『実践理性批判』要約

『道徳形而上学原論』isbn:4003362519
実践理性批判isbn:400336256X
さて、人間の認識能力は感性・悟性・理性に別れていますが、これらの能力は認識ではなく倫理学の領域ではどう機能しているのか?


さて、理性は二つに分かれます。理論理性と実践理性です。
理論理性は前述したように経験や概念による文章から推論する能力。
一方、実践理性は意志をもって行為する能力です。


この意志というのがまた一つの領域なので説明しますが、意志は実践理性ですが、感性や悟性とも関係があります。
感性は自然現象を認識しますが、自然現象に基づいているような意志は自由ではありません。
また、自然現象と関係ない悟性に基づく意志が自由意志です。
また、実践理性が好むことが善であると定義され、好むことをしている実践理性全開の意志が善意志と呼ばれます。


実践理性が作るものには自由意志や善意志からなる複合体である意志がありますが、この他に道徳的法則があります。
道徳的法則は実践理性の作る行為の客観的法則であり、意志や行為とは必ずしも一致しません。
意志は主観的には格律という精神的な原則を作ってそれに従って行動しますが、これは道徳的法則と一致しないので、道徳的法則と一致させればさせるほど善意志っぷりが実現できます。
意志と行為と道徳的法則を一致させるために尊敬や義務や徳が生じます。


さて、ここまで見ていて思うのは、「倫理・道徳って実際には社会的に生成される偶然的なもんじゃないの?」ということですが、これにカントはこう答えを出しています。
「社会全部に通用する法則的なものが倫理・道徳であって、それは人間の認識能力の普遍的必然的法則によるもので、偶然的なものではない」と。
その人間の認識能力の普遍的法則とは何か? 「自分の行動原則は果たして普遍的なものたりうるか?」ということです。これが定言命法であり、カント倫理学のコアとなります。
ここで「自分にしか通用しないもの」と「誰にでも通用するもの」の差が生じます。後者のみが倫理たりうるということです。
ただ、この差は個別と普遍の差であり、「ある○○」という特殊がないですね。ここは後にヘーゲルなどが論を進めるところです。
単純に個人と社会の差を語るだけなら個別と普遍という差で基本的に問題ないと思います。


あと大きな違和感は自由から道徳的法則を導き出す手法ですね。
普遍性はいいとして、自由と道徳的法則ってそんな直接に関係あるか?
自由って普通は機械論だけでは説明できないように見える因果性のことだろ。カントもそう言っている。そこはいい。
道徳って普通は何かをすべきってことだろ。それは例えば互恵関係、忠誠、権威の尊重、身体的な危害の制限、性的関係や食べ物の規制などだろ。
それらは自由に基づくかも知れないが、かなり迂遠な関係のように思うが。間に何枚も板を挟んでいるとでもいうか。


まあいいや。ここまでは倫理学ですが、ここからがカントクオリティ宗教タイムです。
人間の感性に影響された意志は感性世界で意のままになる幸福を追求します。
しかし当然ながら感性の幸福と、悟性・実践理性の徳は一致しません。認識能力の出発点の差です。
しかし、人間の認識能力は複合体なので、徳だけ追及することは不可能です。
じゃあどうするか? 徳も幸福もいっぺんに追及できれば最高じゃね? ということで徳と幸福が統一された形態が最高善と呼ばれます。
ここからますますついていけなくなるのですが、じゃあそんな最高善がどうすれば実現できるかというと、神を想定することだそうです。
すなわち、理論理性で理詰めで考えると、感性の自然現象の究極原因となる神の存在が要請されるということです(いるかどうかは分からないままだが仕方ない)。
この神が何の目的でいるかというと、徳と幸福を一致させてくれるため、という思想です。
正直この辺は「別に一致させなくてもいいんじゃないの」「そんなに徳に対する幸福の救済が欲しいのかよ」と思うのですが、ここが私の日本人的発想の限界でもあるのかも知れません。
また、宗教を考える上で、徳と幸福を一致させたがる人類の性向を説明していると言えなくもないです。


図にするとこんな感じ。

  • 感性:幸福を追求する
  • 悟性:自然現象と関係ない自由の源
  • 理論理性:自然現象の究極原因となる神の存在を要請する
  • 実践理性:意志と行為と善と道徳的法則の源
  • 意志:複合体、行動原則の源
  • 意志-行為-道徳的法則の結合:尊敬・義務・徳
  • 幸福-徳-理論理性の結合:神・最高善