ヒース『ルールに従う』要約その2

○メインのいろいろ
●学習から文化まで(学習→社会的学習→模倣→同調性→信頼→サンクション→懲罰→文化
・模倣が同調性を生み、同調性がサンクションを生む
学習から始まり累積的な文化の成り立ちに至るまでの道筋をまとめます。


生物の学習には社会的学習と試行錯誤があります。
人間特有の能力として、社会的学習における模倣という能力があります。ここまでは生物学的進化ですが、ここから違っていきます。


まず、人々が模倣し合うことで同調性がもたらされました。


社会的インタラクション(相互作用)の際に、同調性のある人々が「ここにいる人々はみんな同調性がある人々だ」と思うことで、コーディネーション(調整)や協力がしやすくなります。
このように「ここにいる人々はみんな同調性がある人々だ」と思うことを、この本の中では信頼と呼んでいます。
協力によって期待できる価値が裏切りによって期待できる価値より大きい場合、信頼を成り立たせようという動機が働きます。


信頼を保つ手段として、場に信頼が乏しい場合のために、同調性を補強するためのサンクション(報酬及び懲罰)が発生しました。
実は、信頼は「成り立てば集団的にも個人的にも有難いが、結局は裏切った方が個人的には得と思われたらジ・エンドなのでは?」という問いに対して脆弱なのですが、ここで報酬及び懲罰がものを言います。
具体的に言うと、インタラクションを何度か行うことで、相手が信頼できるかどうかは分かるので、これで同調しない裏切り者に積極的に懲罰を与えることで、結果として場に残された人々の同調性を大幅に高める、ということが可能になります。
実際、人間は「助けない」(これだと助けられない全員が被害をこうむってしまう)ではなく「罰する」(これだと裏切り者個人だけを対象とすることができる)ということで同調性に関わるサンクションを行うのですが、これは他の動物では見られない傾向です。
また、単なる利己的な動機での攻撃なら他の動物にもありますが、同調性を動機とした攻撃というのは人間だけの話です。


・サンクションが文化を生物学的進化から独立させる
模倣同調性は、集団において文化をもたらしました。また、文化的行動パターンは同調性サンクション特に懲罰によって、生物学的行動パターンからどんどん乖離していき、文化的行動パターンとしか言えないものになっていきました(実は模倣でなくても社会的学習ができる種であれば文化を獲得しうるが、人間の場合は模倣のため文化が特に強力に発展したと言える)。


●社会化(愛着・同調性・サンクション・文化→社会化
・サンクションが同調性と文化の内面化である社会化を生む
少し離れて、社会化の話をします。これは外から来た同調性文化を、自分の心の中に取り込んで内面化することを意味します。
社会化には一次的社会化と二次的社会化があります。
愛着のある相手(親や文化的親)からのサンクションを経験して、利他的な人を好きになり、利己的な人を嫌いになることで、同調性を内面化・強化する一次的社会化が発生します。
その後、特定の文化を経験することで、文化を内面化・学習する二次的社会化が発生します。
これは少し後で出て来る論点なので、とりあえず触れておきました(伏線)。


●規範の成り立ち(血縁選択・互恵的利他主義・同調性・社会化→規範)
規範の成り立ちにおいて、これまでの自然科学では、血縁選択互恵的利他主義というメカニズムが説明として使われてきました。しかし、ヒースはこれに加えて同調性がないと人間でみられるような広範な道徳にはならないと説きます。どういうことでしょうか。見ていきましょう。


血縁選択とは、ざっくり言うと、子供や親戚を大事にすることで、自分の一部が残るから、子供や親戚を大事にするのだ、そういう性質を持った個体の部分は残るので、そういう性質そのものも残る、というメカニズムです。
またざっくり言うと、血縁選択は感情レベルでの共感をもたらします。ですが、この共感は範囲がきわめて狭く、子供や親戚、拡張されても幼い個体には発生しやすいが、そうでない個体には発生しにくい、という代物です。それでは人類にみられるような広範な道徳の源としては脆弱すぎます。
家族における共感の発達による社会規範の成立を考えていた山極寿一『家族進化論』の説は、この説とは合わないということになります。


また、交換による利害計算ができる能力を基に、互恵的利他主義、すなわち助け合いが発達しました。これは遺伝的に無関係な個体間での小規模な協力をもたらすことができるのですが、これも小規模な協力しか達成できないため、人類にみられるような広範な道徳の源としては脆弱すぎる、ということになります。
なお、いわゆる友情というものは、インタラクションにおける互恵的利他主義の産物であるとこの本では説明されています。どういうことかというと、利他的な人を好きになり、利己的な人を嫌いになることで、その好きな感情を相手の有徳な性格に、嫌いな感情を相手の悪徳な性格に帰属させるという仕組みが、友情や徳のメカニズムに他ならない、ということだそうです。
なお現在の性格心理学においては性格と徳の結びつきは否定されていることに注意すべきですが、それが友情や徳を無意味にするわけではもちろんありません。友情や徳は性格に見えるがそうではない何かだ、ということです。この本では書かれていませんが、感情的な印象に関わることでしょうね。印象が人間関係やその後のいろいろを決定するのは言うまでもないことです。


・互恵的利他主義はサンクションを恣意的なものから均衡で安定するものへと変える
さて、互恵的利他主義はそれだけではダメそうですが、サンクションと互恵的利他主義が結びつくことによって、互恵的なサンクションというものが生じます。
実はサンクションには、下手すると誰かやったもんの一方的な恣意的なものになってしまうという重大な問題があるのですが、ここでお互いサンクションしあうことで、サンクションは誰か個人の恣意的なものではなくなり、集団の中における均衡に落ち着く、ということが可能になります。


・安定した互恵的サンクションが文化として広がると、人間固有の規範である超社会性を生む
互恵的なサンクションが、生物学的ではない文化として広がると、遺伝的に無関係な個体間での大規模な協力、すなわち超社会性が生じます。やっとか。
逆に言えば、超社会性は文化的に生じるものであって、生物学的に生じるものではない、ということです。だから、生物学的な説明としての血縁選択や互恵的利他主義だけで規範を組み立てようとしても、良い説明にはならない、ということです。


・従来の血縁選択・互恵的利他主義に加え、社会化された超社会性によって、人間の規範が揃う
また、超社会性文化的なものなので、生物学的に組み込まれている他の二つと異なり、内面化=社会化が必要になります(伏線回収)。
こうして、人間の規範とは、共感社会化された超社会性の三つの集合である、ということになります。このどれかが欠けていてもダメです。


●規範の一種としての言語(規範→地位→言語)
・言語はコミュニケーションと行動の結合に関する規範である
さて、ここで当初の私の興味は終わったのですが、他にも興味を引く話がありました。
それは、なんと言語は規範の一種だという説です。えっ何それ。どういうことだ。


まず、インタラクション他人の視点から見ることができる役割というものがあります。他人の視点から見ることができる能力のことを、心の理論の領域では視点取得と呼ぶのですが、視点取得能力のある動物は役割能力を持つことがあるのでしょうか。多分これ人間だけの話じゃないと思います。
規範役割が結びつくと、これは地位・権利・資格という形で現われます。要するに「このルールにおいて、この人は、これをするものである、そういう役割である」ということです。
何のことかというと、地位・権利・資格は、「理由を与えたり求めたりするゲーム」というものを成り立たせる前提条件になるのです。これはコミュニケーションと行動を結び付けたものであり、何か言うことと何かすることを関連付けて、「このルールにおいて、この人は、こうなったからこう言うものであるし、こう言ったからこれをするものである」という形の規範です。これのゲームが即ち言語の正体だというんですね。
すなわち、言語は単なるコミュニケーション手段ではなく、それによって何かすることが期待されているようなものでもある、ということです。ああー。確かに実際にはそういうものだよね。言葉って。だから嘘つきの地位は低いし、そいつの「言ってること」は「現実を反映していなかったり」「実行されないのではないか」と疑われるんだ。なるほどなあ。


●言語から新しい合理的意思決定理論まで(言語→計画→信念・原理・欲求)
・言語が計画を生み、計画が信念と原理と欲求を生む。原理を無視した経済学やゲーム理論はよくない
さらに、古い考えである「思考が言語を生む」ではなく、新しい「言語が思考を生む」という話が出てきます。その上で、ヒースは古い合理的意思決定理論を批判し、新しい合理的意思決定理論を提唱します(これは本当は一番最初の章なんだけど、俺がまとめると後の方になっちゃった)。


言語が単なるコミュニケーション手段ではなく、それによって何かすることが期待されているようなものでもある、ということは、言語を基に行動計画を立てることを可能にするということにつながります。
つまり、言語がないと行動計画は立てられない、ということです。思考が言語を産むのではなく、言語が思考を生む、ということですね。
コミュニケーション手段なだけなら言語でなくても構わないが、それは思考を反映してなどいないし、そもそもその状態では思考(計画的な)はなされていないはずだ、もっと進化上の適応によってもたらされたような雑多な無意識的な行動を取っているはずだ、ということのようです。


さて、この計画には、三つの形態がありえます。
外界の状態について起こり得ることの確率を予想して、「外界の状態はこうであると思う」と判断する信念
内的で曖昧な身体的状態を抽出して、それらに優先順位を付けて「どのような結果が一番自分にとって望ましい」と判断する欲求
行為それ自身に対する評価であり、それゆえ規範と整合的な「どのような行為を行うべきである」と判断する原理


状態を基にした行為から結果が生まれるので、この三つを全部含めた合理的意思決定理論になるんだろうなと、個人的には薄ぼんやりと思ってたのですが、実は従来の経済学やゲーム理論を支配している、従来の合理的意思決定理論では、状態=信念と結果=欲求だけが考慮されていました。
これは実は個人の意思決定を記述する上では問題ないのですが、複数人のインタラクションを記述する上では適用できなくなります。実際説明としてうまくいってないまま今に至っているという感じです。
これに原理を加えると説明がより整合的になるので、状態=信念と行為=原理と結果=欲求の三つを考慮した新しい合理的意思決定理論を考えるべきである、というのが実はこの本の最初の章で書かれていることなのでした。


●信念の世界(信念→推論→概念→代数学再帰的関数→数学的推論)
・信念から推論を通して概念が生まれるという新しい論理学
世界の状態に関する信念の世界としての論理学数学の話になります。ですが、これも古い考えを相当激しく覆すものです。


信念は推論や概念の元になる。従来の論理学では概念・名辞信念・主張・判断・命題・文推理・推論、という成立の仕方をしていると考えていたが、むしろ言語はコミュニケーションと行為が一体化したものであり、「何が-どうで-ある」「誰が-何を-する」というの形が一番原始的である、ということです。
そしてそこから「何がどうである-あれはああである-だからこれはこうである」という推論が生じ、さらにそこから「何」「あれ」「これ」「どう」「ああ」「こう」とかいう具体的な内容を埋めるものとして概念が独立する、というのが論理学に対するより正しい捉え方なのだそうです。おお。単純なアトミズムじゃないんだな。


・概念が代数学を生み、代数学再帰的関数を生み、再帰的関数が数学的推論を生む
さらに概念は(代数学のような)代入操作を可能にし、代入操作は再帰的関数を可能にし、再帰的関数が数学的推論を可能にします。この辺は元プログラマには分かりやすいところです。「x=0;」というのが代入で、「x=x+1;(値に1を足すこと)」というのが再帰で、そこからさまざまな複雑な計算が可能になるわけですね。


●原理と欲求の世界(原理→道徳、欲求→倫理)
・原理が義務・道徳を生み、欲求が善悪・倫理を生む
実は、私は大学で倫理学を専修していたのですが、道徳と倫理の違いが分からないままずーっと過ごしていました(学ぶためのいい本がなかったし、高校でも大学でもその後も誰も何も教えなかったんだよ)。この本ではそれについて書いてあります。今更ですが勉強になりました。


規範の部分であり、混同されやすい概念として、道徳と倫理があります。じゃあその違いは何なのか。
それは行為と結果、原理と欲求の違いに対応しているのでした。
すなわち、道徳原理による義務である。
一方、倫理高階の欲求による善悪の価値である。要は、「この欲求は望ましい・望ましくない」という価値が善悪である。ということです。
あーそういうことだったんだね……全然知らなかった……道理で倫理学での成績がドブのような成績だったわけだ……