『脳科学と倫理と法』要約

脳科学と倫理と法』isbn:9784622073154


『脳のなかの倫理』のガザニガを含む科学者と弁護士団が作った本です。
脳科学が発展するにつれ生じる倫理的・法的問題について論じています。

  • 倫理的問題
    • 脳に関する予測技術や能力の改善・増進のため、社会的恩恵を受けられない差別される層が出る可能性がある
    • 社会的機関が精神を変えるために脳を操作するということが許されるのだろうか
    • 記憶回復技術により追憶の中に生きたり、新たな麻薬や疑似麻薬など濫用のおそれ
  • 法的問題
    • 脳に関する予測技術が発展するが、完全に確実とは言い難いため、冤罪などが起こりうる
    • 嘘発見器のため、裁判官や陪審員(この本ではアメリカを想定しているが、日本では裁判員が同じ立場に立つはず)の事実認定者としての役割が侵害されるかも知れない
    • 公的な場所での同意に基づかない隠れ検査によるプライバシーの侵害が生じうる
    • 親が子供の検査をすることは子供を支配したいという親の欲望を拡大するとも言えるし、親権の範囲内とも言える
    • 嘘発見器を使う使わないにより証言の信用性が左右されるおそれがあるし、言論の自由を超えて強制されるおそれもある


などなど。それぞれについて思ったことを(日本の憲法などに従って)書きます。

差別

福祉国家は弱者を救済しなければならず、弱者に十分な教育や就職支援をしなければならないはずです。
しかしそれがなされない可能性がある。脳科学が発達すればそういう人たちの能力を開発できるはずなのに。なぜ?


それはもう金の問題です。弱者には金がない。国にもない。じゃあ分配しない。
これは財政の根本である富の集中と再分配という概念からして許されない思想です。再分配しないのなら税金を払う根拠がない。じゃあ払わない。反乱する。これでは社会はひっくり返ります。
社会上層部は教育や就職支援という形で富を再分配していかなければなりません。これはいわば財政を握る者の義務です。
教育や就職支援はよき労働者を増やし、経済を振興させ、財政をさらに潤すのです。


じゃあ上層部はそういう技術を使うのかどうか? そりゃまあ使わないと不平等でしょうね。
それによって結果の不平等が生じるかも知れませんが、今の社会のデザインでは機会の不平等は避けられるべきであっても、結果の不平等はやむを得ないという見方です。
才能のある子供にロボトミー手術を施したり教育をしなかったりということは、個人の尊厳からはちょっと許される気配はないでしょう。

精神操作

私は自分で自分の精神を変えるのは、変える前の自分の自由だと思っています。いやなら暴力や薬で止めてみなとしか言えません。
実際、鬱病の人が脳を変えたいと言った時に、率直に言って止める道理は我々には存在しません。それで他人が悲しむのだとしたら、悲しむ人は鬱病を治してくれるのか? 出来ないなら泣くな。という問いが私の胸を離れてくれない訳です。
でも、他人が自分の精神を変えるのは、これはすさまじい精神的暴力です。インフォームド・コンセント抜きに許される世界ではないと言えるでしょう。

麻薬

ドーパミンやエンドルフィンをドバドバ出すのにハマるということは大いにありうることです。
私は人間的な幸せというのは非常に複雑なもので、脳汁をドバドバ出しても腹は減るし、眠くなるので、結局体のことを考えると飯と寝床が要ると思っています。金儲けの快楽は金が要るし、権力の快楽は権力が要る。
脳汁がドバドバ出て満たされる快楽はごく限られた味わいになるでしょう。結局人は様々な経験と結びついた様々な種類の快楽を受け取るのであって、快楽がわずかな種類しかないのでは限界が来ます。
私は限られた快楽のために脳汁ドバドバ出す人を非難できません。それは自由にやればいい。暴行さえしなければ。他人を悲しませなければ。ただ、そういう人に俺の趣味は理解してはもらえないだろう。それは仕方ない。
また、体を壊すのであって、私が利害関係者なら、止めるべく働くでしょう。自己の破壊によって他者に損害を与えるのなら、その破壊は認められません。そして結局人は他人とつながっているもので、そういう損害は他人に食い止められていくのでしょう。

冤罪

結局は証拠に頼るしかないわけで、その証拠は物理的であれば、それが心理的証拠より強いはずです。心理的証拠は物理的証拠がない時に限り有効とすべきです。
物理的証拠と心理的証拠が一致しない時、どっちを重んじるかに司法や検察や弁護士の腕が光るはずです(もちろん検察は有罪にしたいのだし、弁護士は無罪にするか刑を軽減したいわけだけど)。
脳科学と言えども心理的証拠より少しだけ物理的証拠に近いというのに過ぎないわけで、ここは従来の心理的証拠とあまり運用は変わらないはずだし、そうであるべきです。

嘘発見器と裁判官・裁判員の存在意義

裁判官は法に基づいて事実を解釈し、裁判員は市民倫理に基づいて事実を解釈します。法や倫理はそのままでは事実とは違う階層のものであり、事実認定のお株を奪われようともその要素は全く変わりません。
そもそも事実認定と言っても、心理的証拠以外、たとえば物理的証拠は普通は本人や検察や弁護士が用意するものなので、裁判官・裁判員の出る世界ではありません。
裁判官や裁判員の存在意義は変わらないだろう、というのが私の見方です。

プライバシーの侵害

プライバシーとは何でしょう? 私生活を守るものです。じゃあ私生活って何だ? 本人や特定者や特定多数を対象とした生活です。
俺が仲間内でしか通じないネタで笑ったり、メールしたり、一人でゲームしたりというのは、全部プライバシーとなることです。
アクセス権は本人が一番重要で、特定者がそれより劣り、特定多数がさらに劣り、不特定多数や他の特定多数に閲覧できるのが非プライバシー、即ちパブリックということになります。


精神は通常は本人にしかアクセスできず、他者危害はあり得ないので、思想・良心の自由は日本国憲法19条で絶対的に保障されています。
しかし、技術力によって本人以外にもアクセスできるとしたら? 他人を悲しませる思想を抱いていたとしたら?
私は精神は本人のアクセス権が他者のアクセス権より強いと思います。即ち、本人が他人に見られたくないと思ったら、それは見られない法的価値を持つと考えています。
ということで、精神を閲覧する知る権利は本人の精神のプライバシーに劣る。よって行使できないし、そのような法の運用はできない。と考えています。
みなさーん! 知る権利を盾に精神を閲覧しようという政策がなされようとしたら、思想・良心の自由とプライバシーを盾に反論してくださいね! (俺はする)

親権

親には大雑把に言って教育と財産管理に関する権利と義務が存在します(本当はもっと細かい)。
では教育とは何か? 本人の才能を開かせて新しい知識を授けることです。
本人の才能を開かせるために本人の精神を閲覧する、あるいは新しい知識をダウンロードすることが許されるのか?
これは実は子供の人権と絡んで難しい問題です。脳科学は子供にどれだけ理性があり、どれだけ人権を保障するべきか答えを出さなければならないからです。
でも基本はプライバシーや思想・良心の自由と変わらないと思う。思想・良心の自由は絶対的に保護されるべきだ。閲覧させることをよしとするなら閲覧させればいいのだし、ダウンロードしたければダウンロードすればいい。
ただ、子供が閲覧を許したりダウンロードを許したりするのを文字通り受け取ることができるのか? 子供は閲覧やダウンロードに伴うプライバシーの概念をどこまで理解しているのか? という問題はあります。
まあそれも訊けばいいことで、親の側に親権に関する倫理規定を設ければいいのかな。と楽観的に考えてはいます。

嘘発見器の強要

嘘発見器を使っていない証言に証拠能力があるのか? むしろ嘘発見器を強制的に使わせるべきか?
これは表現「しない」自由に反するのではないか? 黙秘権にも反するように見える。どちらも憲法上の権利だ。使った方が便利に決まっているが、強要できることとできないことがある。
また嘘発見器を信用しない立場も尊重されるべきだと思う。そういう人たちが嘘発見器を使わなかったからと言って不利益に取り扱ってはならないという倫理規定があるべきだと思う。