『脳神経倫理学の展望』要約

『脳神経倫理学の展望』isbn:9784326153978


神経科学と脳神経倫理学に関する色々が書いてあります。


まず、脳や心を変えるものとして、脳神経科学技術やメディアや薬が挙げられています。
どうやら私の知らない間に「メディア暴力は人を暴力的にする場合もある」という通説が積みあがっているようですね。
で、そういう技術やメディアや薬が脳や心を変えるものとして容認されるかどうかが論じられています。


精神の自由を奪う物理的な力は色々あり、それは少ない方が安全であるというのは確かです。
逆に、精神の自由の結果そうしたものが使われたのなら、それは使った人の自由であるというのも確かです。
最後に、どうあれ他者に身体的・精神的・財産的損害を与えてはならない、そのためなら規制は許される、という要件があります。
こうして見ると、覚せい剤や麻薬がなぜ規制されているかが分かります。覚せい剤や麻薬は、暴力や使用者の心身財産の損害をもたらすので、規制される。
また、医学的な使用が認められているのも同様です。それは心身財産の破壊のために使われている訳ではないからです。


では、賢くなるための薬や、記憶を消す薬は?
正直、PTSDを治すために記憶を消して自己同一性が失われるのがいいことかどうかは難しい問題です。
でも、PTSDが本人にとって精神的損害であり、それを除くために記憶を消すという選択肢があるのなら、これを止めるのは無理なのではないかと思います。
また、賢くなるための薬は、心身財産の破壊に結びつかないのなら、がんがん使えばいいと思っています。
格差が広がる問題はあるのですが、もたらす利益が大きいのであれば、これを止めるのは無理でしょう。(副作用が強ければ規制される可能性はありますが、それはまた別の話です)


メディア暴力は、作家ワナビーとしては表現の自由を考える上で見なかったことにできないところです。
事前に注意書きをしても、いざ視聴したら、自由や社会性を暴力が歪めるのだとしたら? これは普通に考えれば規制しなければならないところです。
こういうことを言うとアレですが、万人にメディア暴力に対抗できるメディアリテラシーを持たせられるかと言ったら今出来ていませんよね。じゃあ、教育が効果を及ぼすまで規制しなければならないところです。
ただ、これはメディア暴力に影響を受けずに単に娯楽として楽しんでいる、メディアリテラシーのある人たちの利益を害することになります。メディアリテラシーのある人には解禁しなければならないはずです。
多分年齢制限やゾーニングということになるのだと思いますし、社会のさじ加減になると思います。ということは動きの鈍いさじ加減のできない法で対処してはならない、流動的な倫理で対処しなければならないということにもなります。


さて、こうして考えると、思想・良心の自由といえども絶対ではないという、ある種恐るべき問題が浮上します。
即ち、ある種の脳の持ち主が暴力をふるいやすいとしたら、ある種の刺激が暴力を起こしやすいとしたらどうするか?
法の下の平等はまやかしで、暴力をふるったことがないけど、暴力をふるいやすいとされる人や表現は差別していいのだとしたら?


民法が許している差別は、意思能力・行為能力に関するものです。
即ち、泥酔者やある種の精神異常者や未成年者は実際に人間的な判断ができないか、人間的な判断ができない「とみなされる」ので、その上で差別するというものです。
これは暴力は要件ではなく、自由の程度が問題になっています。逆に言えば、自由の程度に問題がなければ、差別はしてはならないということです。
暴力を要件にしようとすると、暴力をふるいやすいとされる人を新たに制限行為能力者として認めなければなりません。それができるのなら差別は許され、できないなら差別は許されないということになります。
で、未成年者以外の制限行為能力者は、普通認知症や精神病で認定されるもので、暴力的性向では認められていません。変えるのならこの認める認めないという常識から変えないといけなくて、一足飛びに暴力的性向を差別待遇の理由とすることは無理筋だということになります。
差別の要件は自由の程度であって暴力的性向ではない、ということです。
(逆に言えば、泥酔したり精神異常になる薬を服用した人は、差別されるかも知れませんし、思想・良心の自由もないかも知れません)