『聖と俗』要約

『聖と俗―宗教的なるものの本質について』isbn:4588000144


ミルチャ・エリアーデと言えばルチャドール兼麻薬組織のボスで、必殺技はセント・バーナード蹴り
(それは『ベルカ、吠えないのか?』の怪犬仮面です)。ええと、正しくは有名な宗教学者ですね。


多くの日本人にとって、宗教というのは三つの意味で受け取られていると思います。

  • 奴らは変な手段で金と人を集めて、変な思想を騙って、中には犯罪組織もあって、信用ならねえ
  • 興味がない
  • 何となく神秘の領域みたいなものを認めており、TV番組で星座占いやスピリチュアル系を見たりする

中には熱心な信者の方もいらっしゃるとは思いますが、とにかく外国ほど宗教が強いとは思えません。


かつては宗教というのは、人の祈りや畏れを受け止め、物事の捉え方や思考体系や行動規範をも含んだ、
大きな文化要素だったはずです。
古代の宗教的人間は、概ねどんな風に生きていたのか?
古代と比べると世俗化したと言われる我々は、彼らとどう違った生を生きているのか?


我々が今さら宗教を信じるかと言われれば、それはまた別の話なのですが、
少なくとも我々が何を失ったのかはなかなか興味深いところです。
他の文化圏では相変わらず結構強力であるらしい、宗教とは一体何なのか?


ということで、『聖と俗』を本屋で見かけ、題名を見て、ついカッとなって購入して、
気がついたらこうして要約していたのでした。
最近本当こういうこと多いな。何かの病気なんだろうか。

  • 宗教的本質:宗教・神・聖なるものの本質は威力・実在である
  • 時空:古代の宗教的人間は、空間的には神々のいる中心の近くに住み、時間的には神々の時代である宇宙創造時に生きようとした
    • 建設・祭祀は、中心を作る・宇宙創造時を再現する技術である
  • 宇宙:さまざまな模範的意味を啓示する
    • 天の超越性、水の不定形な可能性、大地の産出力、植物の不老不死、石の実在、月の二極性、太陽の不変性・理念etc
  • 生存:人間は、生まれただけでは完全ではなく、通過儀礼・加入式によって世俗の存在様式より死滅して高次の生として誕生する
    • 近代の非宗教的人間は、自己を作る過程で聖なるものを否定し、迷信から解放されようとするが、宗教的な残滓がある

エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』要約・未完成版

大学生時代にエマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』を要約したノートが、
今もダンボール箱の中に眠っています。いつか掘り返して後で書いて『聖と俗』と比較しよう。


ザッと覚えている限りですと、レヴィナスは、倫理と他者とをつなげて考えていました。
即ち、自己の自由でどうにかなる文化・技術的な世界があって、その自由とはルーツの違う、
他者によってもたらされる、宗教や倫理や言語や経済やエロスなどの世界がある。
言わば自己-他者二元論と呼べる世界観が、『全体性と無限』の骨子だったと記憶しています。


エリアーデの宗教観では、他者はあまり強くないように見えます。
類似しているのは天の超越性くらいでしょうか。
むしろ、宗教は世界観であって、文化・技術的な意義が強いように見えます。


何で自分がこんなことに拘泥しているかというと、『全体性と無限』の自己-他者二元論が
正直自分の思考になじまないからです。
『全体性と無限』の他者は、何か神のごとき超越的な実在なのですが、そんな他者とどうやって
コミュニケーション・共有ができるのか? 自分のメッセージは相手に届いているのか?
実はそんな保証はないのではないか? そんな状態で社会が本当に成り立つのか?
そういう疑念が頭から去ってくれません。


自己も他者も、似た精神であって、その類似性がコミュニケーションや社会を保証する、
と考えた方が実情に合うのではないか?
例えば、何か絶対的な実在を考えたがり、祈りたがり、畏れたがる、そういう精神同士が、
何かいろいろなコミュニケーションの結果、宗教をも共有するようになった、とか。
宗教などの文化が先にあり、それをもって他者と関係し、集団として共有する。
と考えた方が、自分にとっては自然なのです。本当に自分の世界観の問題なのですが。
(こんな暇なこと考えるなんて、やはり病気なので、いつか医者に診てもらった方がいいぞ)