『経済と文明』要約

『経済と文明』isbn:4480088709

要約

  • 西アフリカのダホメ王国
    • 官僚制と官僚制チェック機構と地方自治が両立する高度な政治体系
    • 国家レベルでは管理経済的な再分配、非国家レベルでは互助組合的な互酬・相続的な家族経済が主な経済活動であった
    • 交換における価格は最初に定価が定められており、価格競争で定められるのではなかった
    • 奴隷貿易で収入を得て、そのために戦争を行い、軍事費や火薬の入手のために支出した
    • 奴隷貿易の貿易港は、征服地であるウィダ国で行われていたが、ダホメは文化的・政治的混乱を避けるために、ウィダを統合できなかった

説明

西アフリカの、奴隷貿易で栄えた強国、ダホメ王国についての本です。


ダホメは市場経済ではなかったのに、市場経済のヨーロッパに対して優位に立って貿易をしていました。
どういうことかというと、ダホメでは価格は最初にダホメ側が決めており、
ヨーロッパはこれに従わないと取引が成り立たなかった、ということです。


こうして見ると、ヨーロッパより優位に立つダホメについて知りたくなりますよね。
ということで、カール・ポランニーはダホメを研究することで、
市場経済と非市場経済を貫く経済的理論を探り当てようとしました。

経済活動色々

市場経済では、再分配(管理経済)と互酬(互助組合)と家族経済(相続)が主な経済活動になり、
交換(市場経済)は主流ではなくなります。
市場以外にも、政府、団体、家族を通して、経済活動は行われうる、ということです。
また、これらを無理やり市場に統合するのはよくない、というのがポランニーの立場です。


理経済と言えば、イギリスのケインズ派アメリカのニューディールソ連の計画経済ですね。
今、政府は市場化テストを行っていますが、政府の全経済的機能を市場化してよいのかというと、
そんなことはありませんね。おそらく後で、無理に市場化した箇所については問題が生じるだろうし、
そうした箇所は再び政府の管轄になる、と思われます。


また、組合の力も侮れません。特定の非営利の目的で財やサービスを集約して運用するということは、
企業のやることではないので、組合が行うこととなります。
政党や労働組合は政治権力を持っていますし、NPOも福祉政策の実行者として活動しています。
民間では企業だけが何でもやるというわけではなく、組合もアクターだ、ということです。


家族はマクロ経済学では消費者、家計という形でしか認識されていないのですが、
経済と法律の接する領域の一つである民法では、親族と相続は四大項目のうちの二つです。
相続は正に金の問題ですし、親族はその根拠となる社会的関係です。
小さな領域ながら、市場から固有の経済活動があると認められます。
執事やメイドは市場経済と言えなくはないのですが、雇ってる家は世界的にも少ないですね。


ポランニーは、市場・政府・団体・家族がそれぞれ調和した経済社会を期待していたようですし、
どれも今現実に社会にあって有効に機能しているものなので、その調和は不可能ではないはずです。
ただ、それは今の新自由主義とは全然違う調和であって、市場は小さくあるべきだ、
大きいと弊害も大きい、という考え方です。今でも新自由主義には批判が大きいですね。

社会・文化→政治→経済

もう一つ目を引くのが、社会・文化・政治・経済の関係です。
どの社会にも宗教など慣習があり、政治体制があり、経済体制があります。


ダホメの政治体制は今見てもなかなか優れたもので、官僚制があり、同じ数だけの官僚チェック機構があり、
これによって官僚制の暴走を抑制しています。
また、特定の分野では、その分野のトップが王より権力を与えられていて、王の暴走を抑制しています。
さらには各地域社会に根ざした地方自治があり、中央政府の暴走を抑制しています。
民の組合においては、組合長が王より偉いため、部分的に民主的であるとすら言えます。
要するに、ヨーロッパとは関係なく、権力分立が出来ていた、ということです。これは単純にすごい話です。
今の欧米や日本の各国憲法でもなかなか出来ていないのだから。


また、非市場経済では、この政治体制、特に王によって価格や貨幣の供給が決められ、
それによって再分配が成されます。
互酬や家族経済においても、制度を担保するのは団体や家族であり、一種の権力です。


この政治体制を支えているのは、社会であり、文化です。


「特定の分野では分野の長が王より偉い」「地域社会では地域が王より偉い」という社会だからこそ、
こういう政治体制が出来た訳です。
政治は権力を目指しますが、権力のソースは社会的に共有された態度です。
「誰が誰より偉いと思う」という態度が共有されたところに、初めて権力は成り立ちます。


また、チェック機構は、ダホメの双子を重んじる文化に根を持ちます。
男の官僚制と、女の官僚チェック機構があり、これを双子に見立てて分業させる、ということです。
これは極めてダホメ的な文化の洗練の結果であって、欧米や日本にはこういう考え方は乏しいですし、
よってこういう政治体制は生まれませんでした。


なぜ社会や文化の話をするかというと、ダホメ王国とウィダ国の問題があるからです。
ウィダ国では奴隷貿易がなされていて、これは大きな富をもたらしていました。
ダホメ王国はウィダ国を征服して、奴隷貿易から大きな富を得るようになったのですが、
不思議にもウィダ国を統合しませんでした。おそらくは自治を認めていたようです。
何で? と我々の感覚では思うのですが、ダホメとウィダとでは文化が違うため、
統合による文化的混乱が避けられない、よって統合しなかった、ということのようです。
先も述べたように、ダホメの政治体制は文化によるところが大きかったため、
ウィダの統合は政治体制の混乱をも同時に招きかねなかったのです。
政府が転覆してまで利潤を追求しようとする政府は、いくら何でもナシですよね。

人権思想ってどこまで人に通じさせることが出来るのか

さて、グローバリズムにおいては、人権の普及が文化の壁に阻まれている、ということが見られます。
日本をはじめとしたアジアや、イスラムにおいては、人権はあまり文化的になじまないということです。


日本は違うと言いたいところですが、日本人の考える憲法は平和であって、断じて人権ではありません。
人権保護・権力分立をしない憲法憲法ではないし、そういう憲法を持たない国家は先進国と認めない、
というのが欧米のルールですが、多くの日本人はそうは思っていない、ということです。
平和のためなら人権は場合によっては抑圧されてよい、と考えている人が意外と多いのではないでしょうか。
これでは治安維持法の再来を防げません。思想の自由もへったくれもありません。怖い怖い。


私は人権のよさを享受している側の人間ですので、人権が普及するのは大歓迎なのですが、
さてどうやって普及させればよいものか?


人権はヨーロッパ文化のもので、他の文化には妥当しないものなのか?
これに関しては、一つの古くて脆い説があります。即ち、「キリスト教の神の前の平等」です。
神の前では人は平等に価値がある、というのですが、これでは非キリスト教徒を説得できません。
起源としてはこの説でいいのかも知れませんが、もっと別の根拠が要ります。


もっと他にないか? 人身の自由系や内面の自由系ではどうか?
人は肉体や精神として同じように個人であり、この仕組みは文化や政治より根源的なので、
個人は文化や政治によっても尊重されるべきである、という。これなら説得できそうな気がする。


ただ、「肉体や精神が個として分けられない」と考えている人に対しては、この説得も効かない。
私には肉体や精神は個として分けられるとしか考えられないけど、
個として分けられないと考えている人がゼロだとは言い切れない。