『パンツをはいたサル』要約

『パンツをはいたサル―人間は、どういう生物か』isbn:433406003X

要約

  • 生物や人間などは、物質などの下位の法則が、上位の法則に型どりされてできている、層状の存在である
  • 人間には動物と比べていくつかの過剰な性質があり、これは種や共同体として受け入れられてきたものである
  • 人間は過剰に生産し蕩尽することで、快楽を得て、社会の活力を回復させる
    • エロス・遊び・宗教などによって生産-蕩尽が行われる
    • 貨幣は生産-蕩尽の副産物として生まれた
    • 道徳は人類や共同体の共同幻想であり、法律は人工的な共同幻想であり、侵犯されることで蕩尽と同様の効果がある


カール・ポランニーの流れを受けた経済人類学者、栗本慎一郎の本。
人間は社会として、道徳を守ったり生産を行っては、道徳を侵犯したり蕩尽したりして、
快楽を得たり社会の活力を回復させる、という回路を持っている。
エロス・遊び・宗教・貨幣・道徳・法律などは、そういう回路の上に生じた過剰であり、
侵犯・蕩尽されることで社会に活力をもたらす。というのがこの本の骨子。
社会→文化・経済・法、という流れ。


今さら何でこんなもん読んでるかというと、精神と社会と文化の関係を捉え直すためです。
「文化や技術は本当に社会を前提としなければならないのか、
文化や技術は精神の所産だから個人でも持てるのではないか」という考えと、
「社会を前提としない、完全に個人的な文化や技術は、
長いスパンで見れば絶滅するので存在しないに等しい、
文化や技術は社会の所産として考えないと実情に合わない」
という考えがあり、どっちだろうなあ、と悩んでいるのです。
個人の発明した文化や技術と、社会の保持している文明や技術、どっちが先なのか?
栗本論では後者が先で、社会によって前者が承認されなければ前者は絶滅する、
という考え方のようです(動物における文化の考え方も、伝達が要素となっている)。


もう一つ、私が栗本慎一郎から受けている影響として、層の理論があります。
生物や人間などは、物質などの下位の法則が、上位の法則に型どりされてできている、
層状の存在である。
ならば、どんな層があるのか。どういう順番なのか。ということが、昔からの私の関心です。
さっきの話で言うと、精神と社会と文化はどういう順序なのか。
人間は精神→文化→社会という層構造で出来ているのか、それとも精神→社会→文化なのか。
そこで栗本論では後者ということになります。


どうでもいい違いじゃないかと言われるかも知れませんが、これは実は人権、
特に自由権と連動します。
人権は個人を単位にして成り立ちますが、その個人に出来ることは二つあって、
他者と関係することとしないことに分けられます。
文化的・技術的なことは、精神を行動によって外に反映させたものであり、
他者と関係なく出来るはずで、他者より前にあるはず(つまり精神→文化→社会)ですが、
実は人権の制度上は他者の影響を受けます(つまり精神→社会→文化)。


実例を挙げると。

  • 自由権
    • 人身の自由(奴隷的拘束からの自由など)
    • 精神の自由
      • 内面的精神の自由(思想・良心の自由など)
      • 外面的精神の自由(表現の自由など)
    • 経済の自由(財産権など)

このうち、生物的な基盤を持つ人身の自由と、精神的な基盤を持つ内面的精神の自由は、
基本的に絶対的保障が与えられています。
じゃあ精神の外にある外面的精神の自由と経済の自由はどうかというと、
これが公共の福祉(他人の人権を侵害しないこと)によって制約を受けます。
精神と文化・経済の間に社会があるべきだ、というのが制度的な考え方だということになります。

  • 人身の自由
  • 内面的精神の自由

〜越えられない社会の壁〜

  • 外面的精神の自由
  • 経済の自由

という感じ。


一見奇妙ですが、他者との関係がモノとの関係より優先されるんですね。
私と他者とモノがあるとき、モノは行動しないからある意味どうでもいいが、
他者は行動する。その行動によっては私が殺されたり侵害されたりする。
どうでもよくない。より優先される。ということでしょう。


それにしてもモノ(道具)なしで他者と関われるできるのか不思議に思いますが、
そこは身体(や顔や声や性器や拳)が媒介になるのでしょう。
身体は元々他者と繋がりうる作りになっている。性的な意味とか色んな意味で。
そこまでこの本では言ってないけど(別著『都市は、発狂する。』で言ってはいる)。