『西洋美学史』要約

『西洋美学史』isbn:9784130120586
「芸術の美しさと娯楽の楽しさってどう違うの?」という問いに突き当たった時に突き当たった本。


まず、この本では美と芸術が必ずしも重ならないというところから指摘しています。
かつては「感性=美=芸術」という三位一体があった。でもそれは解体されている。どのように? というのがこの本の論点です。
で、この本では「美とは何か?」というより「芸術とは何だったか?」を主眼としています。この時点で私の目的とは微妙に外れますが、まあいいや教養だ。何か周辺的なことは書いてあるだろう。

美と認識能力

  • 美は感性に関するものである。

従来信じられてきた立場。
美は長らく自然や先人の芸術作品の模倣であり続けてきた。

  • 美は連想する想像力(イメージ、パターン)に関するものでもある。

美は感性を越えて、新しいパターンを想像・創造するものである。
ただし、想像力を重んじる独創性は、シェイクスピアに対する評価や18世紀のヤングの著作以来のものであることに注意したい。
19世紀のジンメルはパターンといえども実在的意義が抽象化されたものにすぎないとし、だからこそ新たにさまざまな内容を生み出せるのだと指摘した。

  • 美は要約する概念(コンセプト)に関するものでもある。

カントは想像力と概念の相互作用によって美と芸術が生じるとした(感性に対する評価は低く、娯楽と関連づけられている)。
見たものからパターンを抽出してそれが何かのコンセプトに結実しようとしているのが美。
コンセプトから出発してコンセプト以上のイメージを膨らませるのが芸術。
シラーはこれを進めて、芸術家が何かドロドロしたイメージからコンセプトを練り上げ、そのコンセプトから出発してさらにコンセプト以上のイメージを膨らませ、そうやって芸術が成り立つとした。
カントもシラーも18世紀後半の人であることに注意したい。


こうして見ると、美は感性に関わるけど、結局何にでも関わるということになりますね。感性に関わり想像力に関わり概念に関わる。
娯楽は感性に関わる快楽だけど、美は感性だけではなく想像力や概念に関わる快楽である。感性を越えて何か連想・要約できるものである。

美と社会

美は認識能力だけではなく社会にも関わります。
まず、プラトン以来、美や芸術と公共性のかかわりが断たれてしまいます。
かつては詩人が芸術をやりながら公共的精神を涵養していたのですが、プラトンの頃には芸術にそんな資格はないとなってしまいました。
これに対して、はるか後のヒュームは、美の能力である趣味は自然本性に基づくものであって、その基準の普遍性が公共性につながるとしました。
ガーダマーは趣味を人に同意してもらうことで公共性が生まれる余地があると言っています。
ヤウスは多元的に分裂しつつある社会に直面し、そういう社会に共通の世界の地平を作り出すところに芸術の役割を見出します。
要するに美や芸術は人類共通の能力であり、通じ合う話題である、ということですね。
ですが、別に通じ合う能力や話題が美である必要が感じられないと言うか、そんなに美って人をつなぐもんか? という疑いが晴れません。何で言語じゃ駄目なんだ?
一つには、言葉は要約する概念に支えられるものですが、美は連想と要約と快楽に支えられていて、言葉よりはるかに充実した伝達手段でありうる、ということが挙げられるでしょう。

芸術と歴史

(美ではなく)芸術はさらに歴史とも関わります。
アリストテレスは芸術というものが自然本性に向かうという目的性、歴史性を持つものだとします。
アリストテレスは芸術、特に詩と歴史との違いも述べています。歴史は起きた個々の現象を語るものであり、詩は起きるであろう普遍的な現象を語るものである、と。
ハイデガーは芸術が人に衝撃や不安を与えることにより、原初、はじまりのものをもたらすことを述べています。
この原初は最初にあるものですが、将来どうなるかという終焉をひそかにはらんだものであり、芸術家はそれを読み取ることで原初の終焉を完成させます。
これが歴史だとハイデガーは言います。ハイデガーにとって歴史とはクリエイターが拓くものであり、解読や創造によってもたらされるものであるようです。
ただこれも別に美に限ったことではないというか、スキルや言語でもいいじゃんと思ってしまいます。スキルや言語では衝撃や不安をもたらさないから駄目ということか? でも本当の認識に特殊な感情が必要だという発想がそもそも俺には受け入れがたいなあ。普通の認識にも常識が関連していて、それを打破するのに特殊な感情が必要?

芸術史

なお、芸術と歴史の関係ではなく、芸術史についても書いてあります。
ザッと古典、ロマン、新芸術、芸術の終焉とあります。

  • 古典

典型的には古代ギリシアに見られる。
描かれる内容と描く表現が切り離せない。
ゼウス像はゼウスそのものを表しているし、ゼウスそのものである。
芸術に独自性は見られない。

  • ロマン

典型的にはキリスト教社会に見られる。
描かれる内容と描く表現が切り離せる。
神と絵は直接には関係なく、絵の背景に神を見出すという操作が必要になる。
それが出来る人は少ないので、内容は忘れられて表現だけが追及されることになりかねない。
これにより芸術家の独創性が前面に押し出され、人間的なものが表現されるようになる。
常に批評によって新しく定義されなおし、新しいものが作られる。

  • 新芸術

人間的な要素を排除し、純粋に芸術的なものが追及される。
外的な対象を模倣せず、媒体からインスピレーションを引き出す。

  • 芸術の終焉

20世紀のダントーが提唱。
芸術の純粋性から、再び他の諸目的に奉仕する芸術へと変わる。
批評による新しい定義の必要性は薄まり、様々な様式が共存する。


こうして見ると、芸術は美というよりはまずは表現のものであり、ある時点では模倣ですらないということに気づきます。
フィードラーは芸術を美ではなく認識に関連付け、芸術学を打ち立てました。
これをハイデガーと重ね合わせると、物事の隠された核を読み取り、核を表現することが芸術なのでしょう。

感性-美-芸術の関係

  • 美は感性だけではなく想像力とも概念とも関わる快楽である。
  • 芸術は美を表現するだけではなく物事の核を読み取り表現する。

芸術と娯楽の違い

様々な議論があります。
ヤウスは、受け手が同一ジャンルの作品を数多く読むことで期待の地平ができるとし、新しい作品が期待の地平とギャップの小さいものであれば娯楽、ギャップの大きいものであれば芸術であるとしました。
カントは、感性に関わる技術が娯楽、想像力と概念に関わる技術が芸術であるとしました(なおカントは想像力と概念によって美がもたらされるとし、芸術を美の技術としています)。
メルロ=ポンティは、見慣れたものを別の形に翻訳するだけのものが娯楽、表現されたことのない世界を描くものが芸術であるとしました。
ダントーは、芸術が娯楽という目的に奉仕することがあるが、真の芸術は宗教や哲学と同じ領域にあるとしました。


こうして見ると、娯楽は期待されるもの、見慣れたもの、感性に関わるものである。
芸術は予想外のもの、表現されたことのない世界、想像力と概念に関わるもの、宗教や哲学と同じ領域にあるものである。と言えるでしょう。
つまりどういうこと? 娯楽は比較的常識に即している、芸術は常識を越えたところにある、ということが言えるのではないでしょうか。
楽しいものは浮き世の一杯の清涼剤でありうるかも知れないけど、芸術や核はそういうのを越えたところにある。


ただ、ここでまた美と芸術が重ならないという話になるのですが、自然美は芸術とは違うので、川の流れや花の美しさは常識的だが美しいよね、ということになってしまいます。
美との絡みで言えば、娯楽は常識に即した単なる快楽で、美はより抽象的に「自然から連想するもの」「自然から要約したもの」「芸術の核」という未知の概念に結実しようとするもののようです。

雑感

  • 娯楽は常識に影響を受けた快楽である。

では常識とは何か? 心の構造(性格とか)や心の経験の積み重ねによってなる、デフォルトで与えられている心の状態である。

  • 美は常識から自由になって、連想や概念を働かせることで、感覚から感覚以上のものを得る快楽である。

つまり美は何かしら連想や概念を伴わなければならない。自然から連想するもの、自然から要約したもの、ある種の芸術の核、などなど。

  • 芸術は常識から自由になって、感覚から核を見出し、表現するものである。

こうして見ると、美は娯楽から「上の」ものであるのに比べ、芸術は娯楽より「深い」領域を探るものであると言える。
しかし本当にそうか? 感覚より深いものを抉り出すと称する過程に連想・要約のプロセスは決して働いてはいないか? 結局は感覚からなんか連想してそれを要約したものを核として扱っているのにすぎないのではないか? そうなると美と芸術が区別できなくなる。
本当に感覚より深いものを抉り出す能力が芸術家に強くあり、素人にはそれほどなく、素人も芸術を見ることでその能力が働くのだとしたら、そういう特殊な認識能力(芸術センス)があるということなのだろう。

課題

西洋以外

西洋以外の観点を見てみると、上の結論も果たして本当だろうかという疑いが出てくる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E7%9A%84%E4%BE%A1%E5%80%A4

また、アフリカのある遊牧生活を営む原住民に「美しいものは何?」と聞くと、「どうだい、この美しい牛の肌!」と、彼らの生活に欠かせない物を答えとして出し、「あなた達がなぜ、花や、フラミンゴみたいな鳥や、サバンナの動物を美しいというのか分からない」と言う、といった具合に、美的感覚は各個人や、その者が属する生活共同体にとって有益であるかどうか、にも左右される事がある、という事を失念してはならない。

こういう意見が出た時にどうする? 彼らの美といえども有益性という高度に概念化されたものに基づくということか? じゃあ何で花を美しいと思わず有益性のあるものを美しいと思うのか? その選択性は何に基づいている? 単なる偶然か? (同様に花を美しいと思うのも偶然的でありうる)

遊びの問題

遊びは常識から自由になって、連想や概念を働かせることで、感覚から感覚以上のものを得ることがしばしばありうる。
そうなると、遊びも美の要素を含んでいることがありうる(実際にシラーは美は遊戯によって定義づけられ、芸術はで遊戯の一種であると言っている)。
が、普通に考えると遊びは美であるよりむしろ娯楽的である。このギャップをどうするか?