公共的な主体としての政府と公共性

個人同士・集団同士の関係では、どうしても対立が避けられません。
これは必然なのでしょうがないのですが、放置しておくと公共性が損なわれるので、
利害調整をして公共性を保つべく、政府の存在が要請されます。


では、政府が公共性の全てを利害調整できるのか?
それは無理でしょう。そういうことをしようとしたのが20世紀の福祉国家モデルですが、
システムが複雑になるし、それを維持するためのコストがべらぼうにかかります。


そもそも、個人や集団で解決できることは個人や集団で解決すべきだし、
政府がなくても集団同士で解決できる公共性がもしあるのだとしたら、
それに基づいて解決する方が無駄がないはずです。


この問題を突き詰めると、そもそも政府が様々な集団のパッチワークであるとか、
いずれ今政府に組み込まれていない集団が組み込まれる可能性があるとか、
逆に民間に分割される集団もありうるとか、そういう話題になります。


政府が公共性の主体として作られた集団であるのは確かですが、
全ての公共的な集団が政府の側に押しやられていいのかというと、それは違います。
政党やメディアが政府の下部集団になったとしたら、それは体制翼賛と言います。
これをやっている国家は、大抵それらの下部集団を通じて国民を抑圧しています。
それは政府が社会に対して専制的な権力を振っているということで、到底公共性とは言えません。
それに、政府にそこまでの体制やコストを維持する力がないことは、先ほど説明した通りです。
それらの国は、戦争で負けたり、革命が起きて滅んだりしています。それでは国民が困ります。


公共性の主体は、これからは政府のような一点集中型だけではなく、
政党やメディアやNPOのように多極化していくべき、と見た方がよいでしょう。
政府の重要性は変わりませんが、唯一の公共性の主体ではなくなるはずです。