場としての公共性と共有財

さて、公共性の主体としての政府や政党やメディアやNPOの話をしましたが、
客体としての公共性について考えると、地球的公共善=財、という観点に至ります。
政治は政府があればいいのではなく、政策が成功して結果を出さなければなりません。
メディアやNPOも事情は同じです。
その結果が、例えば資源であり、例えば環境であり、例えば知識であり、
例えば金融安定であったりします。


一応、国際連合、特に安全保障理事会は、世界全体の安全保障に責任を負っています。
世界経済は連動していますし、インターネットは全世界的な情報の入手を可能にしました。
世界の安全保障や世界経済やインターネットは、地球全体の共有財であり、
これらによって地球を一つの集団とみなしうる、とも言えます。


ただ、地球が単一の集団の原理で統合できるほど話は簡単ではありません。
共有するものがあれば集団と言っていいのですが、共有するものが少なければ、
集団としての拘束力は弱くなります。
概ね、ローカルであればあるほど共有するものは多くなり、
グローバルになればなるほど共有するものは少なくなります。
共有財はそれほど多くないので、地球というのは拘束力の大変弱い集団である、
ということになります。


それに、集団であることが公共性であることと混同されることは避けねばなりません。
集団であるということだけでは、異文化交流という側面を削ぎ落してしまいます。
一部の者が差別され、いなかったことにされる、あるいは認識されないようでは、
その分だけ公共性は矮小化されてしまいます。
公共性は集団と異文化交流を共に含むものでなければならない、ということです。


こうなると、公共世界とは一つの場でしかないのではないか、という気がしてきますが、
共有財を集団の紐帯としてではなく、場を豊かにするための要素として考えれば、
共有財もまた新しい価値を持つことになります。
アダム=スミスは市場の公共性について「神の見えざる手」という思想を論じましたし、
国家も富国強兵と富の再分配が重要な任務です。この市場や国家は集団であると同時に、
異なる個人や集団が対立したり協力したりする場でもあります。
人はそのような場を豊かにするために行動しうるし、それが公共的な態度である、
と言えるでしょう。