ガザニガ「人間らしさとはなにか?」要約その1

人間らしさとはなにか?―人間のユニークさを明かす科学の最前線
人間らしさとはなにか?―人間のユニークさを明かす科学の最前線


マイケル・S・ガザニガといえば分離脳患者(手術上の理由で右脳と左脳の間の脳梁を切り離した患者)の研究者であり、神経倫理学というジャンルの第一人者であり、神経科学の指導的存在の一人です。
この本では脳と人間らしさの関係について書いてあります。ものすごく膨大かつ多岐にわたる内容で要約しようとすると途方に暮れるのですが、まあ、やってみましょう。

  • ヒトの社会性について

ヒトの脳がなぜこんなに大きくなったかについてですが、「複雑化する社会についていくため」ということと「食べ物の影響」ということがあるそうです。
集団というのは基本的に捕食者に対抗するために作られるのですが、ヒトの場合、熱帯雨林から疎林地帯やサバンナや草原地帯に移動した種なので、「狩猟がしやすいが自分たちも捕食されやすい」という状況になったので、捕食に対抗するために集団は大きくならざるをえませんでした。
また、ヒトは珍しく互恵的利他主義(非血縁者同士での助け合い)ということをやる種ですが、これを継続的にやるためにはごまかしをする個体に制裁を加えねばなりません。どういうことかというと、互恵的利他主義は普通は「相手が困ったときに助けてあげると、「後で」相手は自分が困ったときに助けてくれる」という構造を取ります。ここで「後で助けてくれなかった」となると互恵的利他主義は崩壊するので、結果として「後で助けてくれなかった奴相手には、お返しをしないか、追い出す」ということをしなければならないわけです。これをするためには複雑な能力が必要になり、結果として社会と脳はどんどん大きくなっていった。ということのようです。
これを支えたのが肉と火と川魚です。何かというと、肉は栄養価高いですが、そのままでは固いので、あんまりいい食糧とは言えません。ですが、ヒトが火を扱い出したとなると話は変わりまして、焼肉は消化のいい栄養源になるわけです。さらに川魚を食べるようになると、頭のよくなる栄養源として有名なドコサヘキサエン酸(DHA)が大量に摂取できるため、脳の肥大化に有利に働いた。というのが、DHA学説を広めたマイケル・クローフォードの説です。(ガザニガは反対意見も同時に掲載している)
集団の肥大化互恵的利他主義食糧の変化が脳を肥大化させた、ということのようです。

  • ヒトの道徳性について

道徳については、意識が関与する部分と、意識以前の部分があります。
無意識の部分は基本的に記憶と情動によって成り立ちます。即ち、刺激によって可(接近)あるいは否(回避)の自動プロセスが働き、これが情動を生み出し、過去に何か経験した場合はそれを元に自動的に処理する、ということです。
情動によって、ごまかしをすると罪悪感が生じるなどして、ごまかしは起こりにくくなります。実はパーフェクト合理的であるとごまかしをした方が得なのですが、それでは全体的に見ると互恵的利他主義は成り立たないので、情動も案外馬鹿になりません。
過去に経験がない場合は意識的に処理しなければなりません。これには自制心や解釈装置(理性)がかかわってきて、これによって情動に100%支配されるのではなく、柔軟性のある道徳的判断ができるようになります。
ですがこれも良し悪しで、情動が理由で何か道徳的判断をしたときに、解釈装置が本来の情動的な理由「ではない」推論を勝手にしてしまうことがあります。これのせいで、カントとかは道徳が理性=解釈装置に基づいていると主張して、これがずーっと信じられてきたのでした。実際には解釈装置は付加的なものにすぎないのに。
なお、ジョナサン・ハイトとクレイグ・ジョセフは五つの倫理モジュール「互恵」「苦痛」「階層」「連合体」「清浄」があるとしています。互恵は先に説明しましたが、苦痛は「相手を傷つけてはならない」、階層は「偉い人を辱めてはいけない」、連合体は「仲間を大事にしなくてはならない」、そして清浄は「死体や腐った食べ物や、何か汚らわしいものには近づくな」というものです。最後のは面白いですね。どちらかというと健康的とか美的とかそういうカテゴリーに入ると思うし、あんまり西洋倫理学はこれを重んじていなかったと思うのですが(俺が知らないだけで何かあるのかも知れない)、確かに道徳はある種の潔癖さを含んでいると言えばその通りですね。

  • ヒトの共感能力について

共感にも二種類あります。意識が関与する部分と、意識以前の部分です。
意識が関与しない場合は、以前から書いている情動のミラー・システムが働き、他人の情動を見た時に自動的に自分の情動も引き起こされます。逆に言うと、自分の情動部位が損傷しているときや、薬物によって神経伝達物質がブロックされているときは、共感は起こりません。
意識が関与する場合は、他者から伝わる情動的な情報を正確に捉え、意識し、利他的に気遣うことができる、というところまで含めて共感ということになります。また、この場合は情動以外にも想像力が動因となることがあります。他人の過去や未来の情動について思いを馳せると、それについて共感が働く、ということです。これはヒト特有のものだと言われています。
なお、アカゲザルチンパンジーも、いわゆる「心の理論」(相手が心を持つ個体であるという認識。実はこれを持たない動物の方が圧倒的多数なのだ)の思考能力(相手が見るということは相手が知っているということで、相手が見ていないということは相手が知らないということだ、という理解)を持っていて、しかもその能力は競争が必要な状況で最も多く発揮されます。ガザニガは、協力的な状況というのは自制心がないと出来ないのではないか、と語っています。

  • ヒトの芸術について

とは何でしょう。それは「知覚の滑らかさ」です。つまり、私たちは容易に処理できるものを知覚すると、ポジティブな感情を持つ、ということです。細かい付帯条項はありますが、要するに知覚しやすい対称性やフラクタルを見たり、1/fゆらぎを聞いたりすると「美しい」と思うのだ、ということです。
実は、動物にも美的感覚があると言われています。彼らも対称性に対する志向があるのです。ただ、彼らは絵画的イメージを自ら作ることはできません(チンパンジーで絵を描けると言われている個体もいますが、図を描くことはできないのです)。
芸術となるともう一つ飛躍があります。芸術はヒトが生まれて、四万年前に急激に拡がりました(なぜかの説明はありませんし、推測も困難でしょう)。芸術とは何か。それは「何か特別なものを作りたい」という欲求であり、これはヒト特有のものだとこの本では書いてあります(俺はニワシドリの飾り立てたあずまやのことをどうしても思い出してしまうけど)。
芸術を可能にするためには、何らかの象徴主義が必要になります。対称性などを意図的に作れなければならない、ということです。象徴ということは架空の世界であり、これが虚構と現実を区別する能力の源であり、さらには「もし〜だったら」「この場合のみ正しい」という「条件」が理解できる能力をもたらします。これはヒトに柔軟性と、異なる環境への適応をもたらしました。「この地域は寒いので服を着よう。え? かつていた地域は暑かったから服なんかいらなかったじゃないか? それはそれ、これはこれだ」という。ええー。条件文に基づく適応って、芸術に必要な架空の世界がもたらしたのか。前衛的な説だ。
また、重要な示唆として、虚構を現実と区別する特別な認知システムは、幼少期に獲得される、とあります。どうしてか。大人になったらそんな暇はないからです。交尾や地位を巡って争うことになるし。しかし、幼少期にこの能力を獲得すれば、神経・認知の組織は拡充され、世界観は拡がり、後の世界への適応度は増す。ということのようです。
我々は虚構は不自然なものであり、虚構は虚構と現実の区別をつかなくさせる有害なものである、と考えがちですが、虚構はヒトにあらかじめ備わっている能力であり、神経・認知の組織を拡充する有益なもののようです。

  • ヒトの信念形成について

ヒトは心と体の二元論に陥りがちであるというか、生活の上では二元論に完全に支配されて生きています。まさか「あっ、神経伝達物質が神経に広がって云々して心が動いたぞ」と心を体の言語でコードして考える人はいないでしょう(いるかも知れないが極めて少数派でしょう)。これはそういう強固な信念の元にそうなっているわけですが、どういう仕組みが働いて、心カテゴリーだの体カテゴリーだのの信念を形成しているのでしょうか。
やはり信念形成にも、意識が関与する部分(内省的)と、意識以前の部分(非内省的)があります。
意識以前の人間の脳の特性リストのカテゴリーには、物体探知装置、動物識別装置、手工品識別装置、顔探知装置、行為主体探知装置(心の理論)があります。物や動物や手工品や顔や他人に反応して要約するカテゴリー機能です。
どれもこれも高速かつ簡便なカテゴライズをしてくれますが、100%正確とは限りません。手工品や心の理論においては、因果関係を発展させて目的論的思考をしてしまいがちです(雲が雨を降らせる「ために」ある、みたいな思考)。これは手工品や心の理論においては正しいかも知れませんが、ある種の因果関係や神のことを考えると不正確なものになってしまいます。
また、物に関する考え方で、ヒトは本質や力という概念を持っています(これは他の動物には存在しません)。本質という考えは、対人関係においては「物体である身体と、目に見えない本質である心・魂」という分類をもたらします。これが心と体の二元論の元になるというんですね。
なお、意識的な信念といえども基本的には意識以前の信念を元に成り立っているので、その影響を大いに受けますが、意識的なので、検証可能な信念と検証不可能な信念を区別することができるようになります。これは信念の正確性に関わることでもあり、このプロセスが分析的思考、科学の元となります。

  • ヒトの意識について

以前ダマシオの「中核意識」「延長意識」の話をしたと思います。中核意識は覚醒していて「今ここ」に気づいているが、自己を認識しておらず、人間特有のものではない。他の動物にもある。一方、延長意識は注意や作業記憶や自伝的記憶を持ち、自己を認識している。
ガザニガはこれに加えて、推論=解釈装置が決定的な役割を果たしていると言います。即ち、自己をかたちづくる要素はたくさんあるけど、解釈装置はこれを統合された一つのものとみなし、「この要素の全体を自己と呼ぼう」と結論付けてしまう、というのです。「自己」は解釈装置の捏造だった! 本当が統合などされていないのに、あたかも統合されているかのように思い込んでいる! 各要素は自分が全体としての自己の一部だと誤解している! うおお。ものすごく前衛的な説だ。
ヒトの記憶の中にはエピソード記憶というのがあって、これが一番高度な記憶とされていますが、これは「いつ」「何を」「どこに」という時間や場所や対象の要素を含んでいるし、何より自己(主観的経験)が含まれています。これはヒトにしかないかというと、どうやらカケスにもありそうです。カケスはエピソード記憶を持っているし、ほかのカケスが自分のエサの場所を知っているのを知っているという「心の理論」を持っているようです。霊長類や類人猿については正直謎です。