クリストフ・コッホ『意識の探求』要約(1)前置き

(2016/7/2 図を縦置きにして文字を「ほんの少しだけ」見やすくしました。その他微修正有)

意識の探求―神経科学からのアプローチ (上)

意識の探求―神経科学からのアプローチ (上)

意識の探求―神経科学からのアプローチ (下)

意識の探求―神経科学からのアプローチ (下)


意識についての本は世に多くありますが、少し昔に出たこの本は、「脳部位の既存の知見を基礎として、科学的に意識を解き明かせるだけ解き明かそう、そしてモデルを作ろう」という、真に挑戦的な本の一つです。
今まで多くの哲学者や専門外の人たちが、脳や意識について実験が未だに出来なかった時代に、脳や意識の実験にほとんど寄与しない、証明も反証もできないモデルばかりを考えてきました。
が、この本は当時の時点で積み上がった意識に関する実験手法と知見で、実際に証明・反証可能な形で、意識の主要な具体例に迫っている、というところが大きなセールスポイントです。これはもちろん今まで積み上がった実験手法と知見あってのことなのですが、「ついにここまで来たか」という感慨がありますね。内容の是非はともかく、検討が出来る、ということ自体が猛烈に有意義なことです。
ただし、意識といっても、意識的視覚知覚の話がメインになるので、「意識されているビジュアルな知覚は分かった。しかし、そんなこと言っても、自分はその前提である意識の話が知りたいんだよ」という方には向かないかもしれません(そういう人はジュリオ・トノーニ 『意識はいつ生まれるのか』を読んだ方がまだ早いかも)。
また、意識の内容の質感・クオリアに興味があり、特に「何で脳という脂肪の塊から、クオリアという、脂肪とはかけ離れた在り方が生じるんだ?」という疑問をお持ちの方には、その手のアイデアを得るのには向かない、と申し上げます。代わりに、「クオリアは何の役に立っているのか? 何かの機能のおまけにすぎないのか?」という疑問をお持ちの方には、そういうアイデアについては扱っていますので、読むと助けになるかもしれません。


若干長いブログエントリになりましたので、ご注意ください。


○この本の守備範囲は意識的視覚知覚と脳であり、意識そのものや質感・クオリアはあまり扱っていない
クリストフ・コッホと故フランシス・クリック(DNA二重らせんモデルで有名ですが、晩年は意識の研究もしていたんですね)の研究戦略は、
「意識の様々な側面のうち、代表的なもので、また現時点で一番研究しやすいものは、『目で見て意識した内容』である。
なので、その『目で見て意識した内容』が生じるメカニズムを、実際の脳神経的な実験や症例から検証しよう。
そうして意識に関する知見の叩き台をまず作れば、それが意識のその他の側面の研究の礎になるかも知れない。出来る事からやろう」
というものです。
意識のうち視覚的な側面は明らかに大きい部分だし、検証もしやすいだろうから、そこから手を付けよう、他は置いておこう、ということですね。極めて現実的に意識を扱っているのが分かります。


逆に、実は意識そのものは質感・クオリアについてはあまり扱っていません。


コッホは科学実験のために意識を「数秒以上情報を維持することが必要とされる、普段慣れていないことを行なうことができること」として暫定的に定義しています。が、この定義で表されるものは、意識的知覚とは大分違うもののように見えますね。
おそらく、意識というシステムの枠の中に意識的知覚という内容があって、内容がなくなったらシステムも機能しなくなる、ということなのでしょう。内容のない意識というのがどんなものか、確かにちょっと分かりません。しかし、ともかく、意識的知覚は維持されている情報の側に、意識そのものは慣れていないことを行なう機能の側に定義の力点があるように見えてしまいます。
よって、以後の記述の中で、私の個人的な立ち位置として「知覚と意識と意識的知覚は全部違う」という趣旨のことを何度か書いています。ここはおそらくコッホと違うところなので、そこはあらかじめ誤解のないようにしておきます。


また、質感・クオリアに対する態度は前述の通りです。「それではクオリア問題の半分しか扱っていない」と言われたら確かにそうなのですが、科学的手法で解けるところから解く、という姿勢ではこうならざるを得ないのは確かです。


○守備範囲外のところと、他の学説との関係
●記憶
記憶の話が必要に応じてちょっと出てきますが、コッホ本では、まともに読むと「手続き記憶は学習の際に意識を前提とする」という説明が出てきてしまいます。これはそういう場合ももちろんありますが、そうでない場合もあります。そこは記憶研究の大家であるエリック・カンデル&ラリー・スクワイアの本『記憶のしくみ』を読んだ方がより精緻な理解になるかと思います(私も読んでいる最中だけど)。
>『記憶のしくみ(下)』P192
>「われわれは何を学んでいるのかをまったく自覚することなく、運動技能を学習することができる。このような無意識の学習プロセスは逐次学習と呼ばれている。」


●情動、感情
意識のうち感情も明らかに大きな部分ですが、コッホは感情の話も意図的に避けて通っています。
また、感情から意識を説明するアントニオ・ダマシオの説についてもほんの少し論じていますが、「あっ今私は認識しているな、という感情としての意識はお話としては分かるが、一般的な意味での感情が障害されている患者も、意識的知覚はあるので、感情が意識の前提というのは成り立たないのではないか」という批判的な文脈で語られています。
ここはダマシオ『無意識の脳 自己意識の脳』でも、意識が感情と極めて密接な関係がある、ということは書いてあるのですが、感情と意識、どちらが先か、ということには混乱があるんです。ダマシオのモデルでは「感情→意識」なのですが、ところどころ「中核意識がダメになると、背景的情動もダメになる(第二章)」「中核意識が損なわれている患者は、背景的情動から二次の情動までが失われている(第四章)」など、「意識→感情(しかもそのうちより根源的な身体的情動)」としか読めないところがあり、それでは困るわけです。コッホはダマシオのモデルの方には反証していますが、まあそれはそうなるでしょうね。


●夢、自己認識
コッホにとって夢は意識の一種ですが、検証するのが困難なので、検証の対象から外しています。
自己認識は意識と何らかの関わりを持っていると思われますが、これも困難さのため検証の対象外となっています。


●言語、会話
少しだけ言語能力や会話能力を司る前頭前野のブローカ野と側頭葉のウェルニッケ野の話が出てきますが、さわりだけです。


●創造性、問題解決、直感
創造性と問題解決能力に関わる直感には意識が直接アクセスできない旨の記述がありますが、この件についてもそれ以上は論じられていません。