クリストフ・コッホ『意識の探求』要約(5)コッホのモデル(NCC以後)

NCC以後
NCC以後の機能についても論じられています。これを図示すると、以下のようになります。


・質感・クオリア
とある哲学分野で論題になるのが、「何で脳とかいう脂肪の塊から、意識や意識的知覚とかいう、脂肪とはかけ離れた機能が生じるんだ? 私にとっては意識的に知覚している感じ(これを質感・クオリアという)は密接なもので、しかも他人と共有できないから、客観的にどうこう論じられる部分だけで語り尽せるものではないのではないか? 科学で何やってもそこは解決できないから結局はその他の説明が必要になってくるのではないか?」ということです。どうあっても質感・クオリアは、「私そのもの」であるか、控えめに言っても「私のもの」なのであり、他人のものではなく、他人が客観的な科学で論じ切れるものではないのではないか? ということです。


コッホはこの問題にいきなり体当たりするようなことはせず、前提や素材としてNCCを同定しようとしています。哲学者にとっては問題に体当たりしないから卑怯に見えるかもしれませんが、何事も段取りは大事ですよね。
また、コッホは「何で質感というものが生じたかは知らないが、質感が生じたら適応上便利だったことは説明ができる」ともいいます。即ち、意識が何らかのことを選択しなければならない時に、意識にとって「重みのある、選ばれやすい」ものは、普通は質感が与えられたものが素材となっているわけです。つまり、ジレンマのあるような問題解決の際(つまり、意識が必要となる際)の、しかも選択する際に実際極めて役に立っているか、あるいは不可欠ですらある、ということです。ここも哲学者にとっては「何で生じたか説明できないからダメだ」と欺瞞的に見えるのかも知れませんが、説明としては分からなくはありません。
このように、コッホは質感を機能面で語っており、構造面で語っていないところに気を付けなければなりません。まず分かるところからやれば、いつか分からないところも分かるかもしれない、という姿勢が感じられます。まあ、新しいやり方を思いつくまでは、基本は分かるところをやるしかないもんな。ここはしょうがないです。


質感は想像によってももたらされますが、刺激によってもたらされるものの方が鮮明な質感になります。刺激がないと下側頭葉(IT)等NCCが強力かつ持続的に発火しないからだろう、とコッホは推測します。そして、質感の鮮明さは量的に扱えるのではないか、そうしたら測定も出来るかもしれない、とも言っています。まあこれも将来の課題ですね。


多くの行動の可能性を探る能力と、意識は非常に強く結びついています。そのため、主観的な感覚を持つことで、生存競争において有利になります。つまりは、質感のおかげで、われわれは「検討する」ことができるようになります。これは多くの行動の可能性の中から一つを選ぶ能力、即ち意思決定の前提の一つとなります。これについては後で説明します。


NCCと意識の周辺部の相互作用の結果、意識的意味が生じる
哲学で言われることですが、意識には志向性という性質が備わっています。質感は「対象」に「向かう」か「指し示す」という志向性を持っており、それによって「意味」をもつことができる、ということです。
これをコッホはこのように見立てます。すなわち、(意識的)志向性や(意識的)意味とは、「ニューロンからの反応を受け取っている脳の別の部位にあるニューロンは、いったいどうやって受け取った情報の意味を解読しているのだろうか」ということになります。脳部位二つの間で情報が行き来するとき、脳部位Aの情報を、(NCCの一部であり意識の主体である)脳部位Bはそのまま送られたまま受け取るだけではなく、何らかの加工を行ない解釈する。それではどう解釈するのか。というのが(意識的)志向性や(意識的)意味の話になります。


コッホは、意識にのぼる勝ち組のニューロン連合(NCCの中にある)が、この連合に含まれていないニューロン(意識の周辺部)に対して作るシナプス接続の後部で、意味が生じていると考えています。コッホの枠組みでは、意識される意味とは、勝利したニューロン連合が引き起こす、ポストNCC活動、すなわち、ニューロン連合からの出力を受けているニューロン活動の一部である、ということです。
意識の周辺部にはいろいろありますが、これらはNCCから直接に連想されるものである、ということだけ押さえておけばよいかと思います。


解釈の仕方に影響を与える要素はいろいろあり、遺伝的に前もって決められた傾向(快楽に従って行動を起こし、苦痛を回避しようとするなど)、経験(生まれたその日からの知覚と運動の相互作用(少し昔に心理学で主流だった行動主義の専門用語ではこの知覚と運動の相互作用を「オペラント行動」と呼ぶ)と、そこから得られた期待・経験則を未来へ適用すること)、さまざまな知覚データの統合(即ち前述の統覚。例:バラ=赤い、特有の芳香を持つ、茎に棘を備えている植物)。そしてさっき触れた、世界に関しての抽象的な事実(意味記憶)、個人の特別な経験(エピソード記憶)などがあります。言われてみればそうですが、宣言的記憶も情報の解釈の仕方に影響を与えるんですね。


NCCそのものが持っている情報は多寡が知れているので、NCCと、そこから連想される情報を、丸ごと扱えたらなお便利です。この情報を効率的に扱うために、脳はそれを記号化しなければなりません。手短に言えば、これが、質感の目的である、とコッホは説きます。この本の別のところで書いてある「ラベル付け」と概ね同じ意味だと考えてよいでしょう。


・即時記憶・短期記憶・作業記憶
話は少し変わり、NCC以後の、医療上は即時記憶と呼ばれ、心理学的にはかつて短期記憶と呼ばれていた、今では作業記憶と呼ばれている機能について語ります。
短期記憶、または即時記憶という言葉は、数十秒単位で必要とされる一時的な記憶の総称です。
人間が作業記憶課題を行っているときには、運動野と前運動野を含んだ前頭葉と一部の後頭葉での脳活動が上がっています。これらが作業記憶に必要な脳部位と考えられます。


意識と作業記憶は、最初の暫定的な定義(数秒以上情報を維持することが必要とされる、普段慣れていないことを行なうことができること)からして、たいへん密接な関係にあるように思いますが、よく見ると作業記憶が意識を構成しているわけではないことが見えてきます。作業記憶が失われた患者が存在しますが、彼らにも意識があり、物体が何であるかを答えたりするのは簡単にでき、普通の視覚的感覚を持っていることがわかります。つまり、作業記憶は意識や意識的知覚に不可欠なものではありません。
逆に、NCCの安定した発火パターンの情報は作業記憶に保持されます。順序としては意識や意識的知覚が作業記憶に先行すると考えるべきです。


・非意識的でありうるような計画
意識的意味と作業記憶は、行動計画を立てることを可能にします。どう動こうか、というのを、意識のフィルターを通した後で考えることができます。
質感としてラベル付けされる出来事、すなわち、意識にのぼったものは、脳の計画段階に送られて、将来の行動方針を決定するのに役立ちます。
また、(質感のある)データを脳の計画段階で反映させるには、一定の時間、データをどこかに保持しなければなりません。ここは前後の文脈から、感覚記憶や長期記憶ではなく、作業記憶がその役目を果たしていると考えられます。
なお、計画から先は「意識されているとは限らない」ことに気を付けてください。非意識的な行動計画や意思決定が存在することを示す証拠は数多いとコッホは述べるので、非意識的ホムンクルスは意思決定だけではなく計画も司っているのではないかと思われますが、それを直接示す記述がありません。もどかしいところです。


・非意識的ホムンクルスと意思決定
非意識的ホムンクルスが司っているとされる機能は、意思決定です。
意思決定は計画を前提として含みます。また、今までの話でいえば、検討を前提としていることも自明のように見えます。どう動けばいいか、どんな選択肢の可能性がありうるか、ということです。これによって、意識のフィルターを通した後で選択することができます(これも、意識している、というわけでは必ずしもないことに気を付けてください)。


トップダウン注意
また少し話が逸脱しますが、NCCの意識的知覚は、前頭前野の別の部位である前部帯状皮質(ACC)に送られます。この部位は、前島(F1)という部位とともに、自己評価・監視、そして注意の制御=トップダウン注意を司ります。


・随意運動
非意識的ホムンクルスは意思決定を行い、その結果を運動に関連した脳部位に送り出します。意思決定は少なくとも何らかの運動に関わるということです。
また、トップダウン注意が損なわれている患者の行動について、単純な状況では行動できるが、複雑な状況では正しい行動を引き起こすことはできないのであろう、とコッホは推測しています。トップダウン注意が何らかの行動に関わる局面があるということです。
これは脳の皮質を経て、しかも意識をフィルターとして行なわれている運動なので、反射や不随意運動や、またこの本でも紹介されているゾンビ・システムではなく、これは随意運動であるとして捉えるのが自然です。
この本は意識の本ですが、ここで感覚から随意運動までのIN/OUTが包括的に描かれていて、その中での意識の位置付けが問われていることが見えてきます。