『個人と国家』要約

『個人と国家―今なぜ立憲主義か』isbn:4087200671

要約

  • 立憲主義:国家の出番を抑える国家からの自由、人権保障、権力分立
  • 日本では人権についてあまり考えてこなかったし、議論も少なかった
  • 欧米では人権について考えてきており、その上で議論している
  • アジアでは文化差もあって人権の考え方が受け入れられていない面もあるが、人権の考え方が優先される
  • 憲法を巡ってはどの国も(戦争を含め)苦渋に満ちた歴史的経緯があり、歴史的経緯を踏まえないと憲法の議論はできない

感想・日本における人権に関する歴史と思想の欠如

日本にとっては、憲法はよく知られていません。知られているとしても憲法9条・平和主義だけで、
より骨子と言える憲法13条・個人の尊重や、憲法14条・法の下の平等は軽視されている感があります。
この二つは近代欧米から脈々と連なる人権の骨子に他ならないのですが、あまり語られていません。
はっきり言うと、憲法の骨子が人権ではなく軍事であると信じている人が多い、ということです。
いくら何でも20世紀に、軍事をメインに考えて作った憲法なんてもんがある訳がないのですが
ミャンマーはそうなのかも知れないが)、ここはかなり勘違いされているところだと思います。


問題は特に歴史と思想にあります。
欧米では人権は骨がらみの歴史であり思想であり、宗教や政府が人民を抑圧して、
人民がそれに抵抗していった結果の精髄ですが、日本ではそんな歴史はありません。
列強の脅威に対抗すべく、非民主的な地方政府が政権を握った、これが日本の歴史です。


日本が恐れたのはまずは産業としての列強であって、次に国家としての列強です。
よって技術と政治体制は導入したのですが、その他の実は重要な思想、例えば人権は
大幅に遅れて導入されることになります。


人権思想が導入されてから、大正デモクラシーで民主主義・政党政治普通選挙など
民主化する流れはあったし、その間の思想的蓄積もあったはずなのですが、
世界恐慌から第二次世界大戦までの間に断絶があり、思想は失われてしまいました。
今でも憲法と言えば軍事が主な論点で、人権については大して語られていません。


さて、元列強は人権思想を洗練させて、それを元に政治や軍事を動かすルールを作っており、
日本はそれに取り残されている感があります。
今や、人権・人道という目的を示せなければ、軍事行動はできなくなっています。
今の日本には人権思想がないため、たとえ改憲の末に再軍備を果たしたとしても、
今の国際政治のルールでは自主的に動かす余地がない、ということになります。
そうなると、今議論している再軍備はおよそ無意味ということになってしまいますね。


じゃあどうするかと言うと、やはり日本に人権思想を根付かせるしかないんでしょうね。
今の日本では、人権について考えているというと、即政治結社扱いされて冷遇されます。
そうでない方向を目指すなら、政治結社扱いされない学者や政治系ブロガーが
この件について議論して、その結果をどこかにアーカイブするしかないのではないでしょうか。
精緻な議論は、やがて少しずつ常識と化していって、人口に膾炙していく。
「え? 憲法の骨子っつったら人権だろ? 軍事じゃなくて」みたいな風潮が生まれれば、
ようやく日本も国際政治についていけるようになる。
今のままでは日本は民主化していないロシアや中国と大して変わりません。
国際的なルールの通用しない、世界の困った国です。それでいいのか? よくない。

要約おまけ

  • 日本では政治が宗教より強かったが、西洋では宗教が社会の機軸をなしていたため、政策的に天皇を宗教として利用した


ああなるほど、宗教が強いのは西洋の事情で、日本では宗教は強くなかったのか。
宗教が先か政治が先かは、地域による、ということか。なるほどね。
日本の場合は、政治は非宗教勢力によって握られていた、ということだな。
具体的には、鎌倉・室町・江戸の軍事政権は宗教の後ろ盾を必要としなかった。


さて、人権思想を受け入れるということについて、宗教抜きの思想というものが
果たして受け入れられるものなのだろうか。
神を否定して理論構築したマルクス社会主義が一時期受け入れられていたから、
それよりソフトな人権思想がやってできないことはないはずだが、どうだろう。
それとも昔のマルクス主義者は理論ではなく印象に引かれたのだろうか。
そうなると宗教的なハードな印象が必要になる。
でも多くの日本人は、やはり宗教は嫌いなのだだから、やはり宗教的色合い抜きで
人権思想を説かねばならない。そんなことが出来るものなのか?